自民党の憲法改正草案では、天皇が、国家元首に掲げられている。
日本国と国民統合の象徴という条文と併記されているが、天皇元首は、昭和軍国主義をうみだした明治憲法への回帰ではないか。
そのどこに、自民党が、長年、党是としてきた憲法改正の精髄があるのか。
明治憲法は、国体を破壊して、国家の進路を誤らせた。
権威と権力、国体と政体の二元論をやぶって、天皇を権力にとりこんだのである。
といっても、明治憲法下で、天皇がみずから権力をふるったわけではない。
国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍など、国家機関の輔弼が必要だった天皇大権は、事実上、封印されていたにひとしい。
にもかかわらず、天皇元首が日本を危機に陥れたのは、軍部が、天皇を政治利用したからである。
天皇元首論が危険なのは、天皇を政治利用すれば、ヒトラーやスターリンがいなくとも、かんたんに独裁体制ができてしまうところにある。昭和軍国主義が、天皇を担いだエリート軍人による〝集団ファシズム〟だったことを忘れるべきではない。
国体と政体、権威と権力のあいだに一線が画されていれば、むろん、天皇の政治利用はできない。事実、日本の歴史、とりわけ、鎌倉時代以降は、天皇と幕府は、相互不干渉の関係にあって、江戸時代の禁中公家諸法度には、政治に口出しをしたら島流しにするとまで記されている。
〔天皇と民主主義に共通する象徴への敬意〕
権力と権威が一体化したのは、権力が権威をとりこんだ明治憲法においてである。明治憲法がモデルにしたのは、ドイツ皇帝を絶対君主としたビスマルク憲法である。日本史上、前例がなかった天皇元首は、ヨーロッパ王政の真似だったのである。
西洋の君主は、絶対権力だが、天皇は、国家や国体、伝統を象徴する権威である。
権威は、歴史的存在で、古来、天皇は、国の象徴だった。
その天皇が、世俗の権力者になると、権威の座が空洞化する。
権力を監視するべき権威が、権力に属するものになれば、権力が暴走するのは必然で、日清・日露戦争、第一次世界大戦から太平洋戦争へとつきすすんだ1900年前後の半世紀は、権威不在の時代でもあったのである。
天皇に権威が宿るのは、歴史(国体)の象徴だからで、個人崇拝ではない。
国旗に敬意を払うのは、国家や国民、歴史の象徴だからで、象徴にたいする敬意は、文化や精神性、人間性にかかる重大なテーマなのである。
東京オリンピック開会式で、天皇陛下が起立されて、開会宣言をおこなった際、横に並んでいた菅義偉首相と小池百合子都知事は、座ったままだった。すぐに気づいて立ち上がったが、その醜態は、テレビで全国中継された。
二人に、張り詰めるような緊張感がなかったのは、天皇を歴史の象徴として敬う精神をもっていなかったからであろう。
革命国家でも、国旗が掲揚されるとたちあがって、軍人なら敬礼する。象徴にたいする敬意は、体制やイデオロギーに左右されることのない人間の普遍的な情緒なのである。
天皇をささえる精神も、尊王心や国粋ではなく、象徴を敬う精神で、日本に帰化した外人でも二世でも、皇居や伊勢神宮に厳かさをかんじるならりっぱに日本人である。
反対に、国旗や国歌を愚弄する日本人は、たとえ、日本国籍をもっていても日本人ということはできない。
天皇と民主主義の共存に必要なのは、思想やイデオロギーではなく、象徴にたいする敬意なのである。
〔〝拝察〟という天皇の政治利用〕
露骨に天皇を政治利用したのが小沢一郎で、「天皇は(内閣の)いうことに従っていればよい」と言い放った。
2009年、民主党議員143名をふくめた483名を引率して中国を訪問した小沢(当時民主党幹事長)は、胡錦濤との会談で、自身を中国人民解放軍の野戦軍司令官にたとえ、「解放の戦い(参院選挙)で勝利しなければならない」と発言した。
そして、その直後、それまで通例だった「30日ルール(各国要人と天皇の会見には文書で30日前に申請)」を無視して、習近平国家副主席との天皇特例会見を強引に実現させた。
小沢は記者団にこううそぶいた。
「天皇の国事行為は『内閣の助言と承認』のもとでおこなわれる。君らは憲法を読んだことがあるのか」
宮内庁の西村泰彦長官が東京五輪・パラリンピックに際して、天皇陛下が新型コロナウイルスの感染拡大を心配されているとした上で、「国民に不安の声があるなかで、開催が感染拡大につながらないか懸念されていると拝察している」と発言して、政府を慌てさせた。
菅義偉首相や加藤勝信官房長官は「西村長官がご自分の考えをのべたもの」として矛をおさめようとしたが、野党やマスコミは黙っていなかった。
オリンピック開催の延期や中止をもとめている立憲民主党の安住淳国会対策委員長はこう息巻いた。
「西村個人の意見と思っている国民はいない。(陛下の)ことばの重みを踏まえて対応すべきだ」
マスコミも、天皇の政治的発言や西村長官の不遜な〝拝察〟に疑問をむけるどころか、菅首相や加藤長官の対応を「不敬」やら「天皇の御心を無視」やらと大時代的な語句をもちだして批判した。
〔天皇の御心をもてあそぶマスコミの危険性〕
ニュースポストセブン(小学館)はこう論じた。
「大御心とは、天皇の御心のことだ。加藤官房長官は、なんと、この大御心を否定したのである。拝察が西村長官の独断だったのであれば大スキャンダルである。大御心を捏造した長官を、即刻、更迭すべきであろう。拝察が正しいか正しくないか判断できないなら、皇居に参上し、直接、天皇の気持ちを聞いてみればよい」
小学館は、大事にあたって、ご聖断を仰げと、幕末の勤皇派のようなことをいう。反論する価値もないので、葦津珍彦の記述(『日本の君主制』)の一部を紹介しておこう。
「大御心は後天的思慮から生じてくる意思ではない。個人の意思よりも遥かに高い所に在るのである。(略)そこに歴史的な民族の一般意思、皇祖皇宗の遺訓たる大御心を、日本人が神意と解し、天皇を現津御神と申し上げる根源がある」
「万が一、天皇の御心があらわれたら、聞こえなかったふりをすべきである。天皇の個人的な御心を、大御心とうけとめてしまう過ちが生じかねないからである」
横田耕一(九大教授)や百地章(国士舘大教授)は今回の西村長官の発言を越権行為といったが、その越権こそが、天皇を政治利用するメカニズムなのである。
「天皇の御心を重くみるべし(文春)」「天皇陛下のご懸念を否定するのは不敬」「直接、天皇の気持ちを聞いてくればよい(小学館)」という物言いが危険なのは、天皇尊重を口実に、あるいは、天皇のお気持ちを忖度(拝察)するだけでかんたんに天皇の政治利用ができてしまうからである。