自民党(+公明党)の長期政権が続く中で、政治の本来の受益者であるはずの主権者国民大衆にとって、政治がどんどん「役立たず」になってきた。そして、国家権力が権力担当者の「私物」になってしまった観がある。
モリ・カケ・桜に加えて「東北新社」接待事件がその象徴である。
「国家権力」などと言っても、「国家」とは私達の頭の中の約束事にすぎず、実際には、「国家」の名で権限を行使する立ち場にいる人間つまり「公務員」がどう振る舞うか? が国家の在り方そのものである。
その点で、安倍長期政権の間に、本来は国民大衆の「公僕」である公務員が政治権力者の私的な「下僕」のようになってしまい、その挙げ句が、時の権力者と親しい者だけが公務員の権力行使により優遇されるスキャンダルの頻発である。
国家が独占的に管理する許認可権は、それで許された者にだけ排他的に特定の事業を営むことを可能にする。その者には、免税、減税に加えて公的な助成が行われることも多い。だから、許認可の基準は法令で厳格に定められている。これが、憲法が保障している法治国家であり法の下の平等である。
ところが、モリ・カケ・桜・東北新社では、首相と親しい者だけが法令を曲げて特権を享受させてもらうことができて、これではまるで江戸時代劇における「お代官様と御用商人」のような関係である。
こんな前時代的で理不尽な事を可能にしているのは、政治権力者による公務員の下僕化である。
最近の権力者達は、「選挙で選ばれた(多数派)議員が国家の意思を決める者で、官僚はそれを実現すればよく、政権に逆らう官僚は左遷する」などと言って憚らない。しかし、それは無教養な暴論である。
官僚は、専門分野別に編成され訓練された人材集団で、そこには分野別に最高・最新の知識と全ての先例が蓄積されている。要するに、官僚機構こそがわが国で唯一最高のthink tankである。
政治家は、選挙で選ばれた立場であるから、そこには「民主的正統性」はある。しかし、それはいわば「人気」投票の結果にすぎず、そこに「質」の保障はない。
その政治家達が、国民の生活を向上させるために、法律を制定し予算を編成する任を担っている。その立法過程とその執行過程で、法と予算が「正しく」決定され「正しく」執行されるように補佐するのが官僚集団の役割である。だから、官僚は、政治家の発案に対して、憲法以下の法令と先例と時代環境に照らして、その長所と短所を指摘して、政治家達による政策決定が結果において最良のものになるように助力すべき立場にある。
にもかかわらず、官僚からの助言を一方的に「無礼」だと決めつけて、「政治家に逆らう者は左遷する」と公言・実行し、政治家に阿る官僚だけを重用し違法行為を行わせ、その結果は検察人事に介入してでも守ろうとする……。こんな政治権力者達の現状こそが諸悪の根源である。
かつての政治家達はこうした常識を共有していたように思われる。ところが、世襲貴族のような政治家とそれにへつらう秘書・地方議員上がりのような政治家が多数を占める時代になり、政治家にこの常識と矜持がなくなってしまったようで、ここが問題である。