沖縄では地元紙『琉球新報』『沖縄タイムス』が琉球王国を誇張し、「廃藩置県は日本政府による侵略併合であった」とする印象操作を行っている。加えて「中国は琉球と日本を同等に遇していた」として親中熱も煽っているのだ。
中国の北京大学はこのムードに呼応するかのように平成26年以降2年に1度、「琉球・沖縄学術問題シンポジウム」を開催、県内の反日識者を同大学に招き連帯を計っているのだ。香港が返還されたときも『東方日報』は、「琉球も本来は中国に属すべきもの」と表現していた(1997年5月27日付)。
ところが最近、この反日史観を決壊させる出来事があった。明治14年(1881)、沖縄に廃藩置県が施行された2年後に第2代沖縄県令(知事)として赴任した元米沢藩主・上杉茂憲のドラマが昨年3月と今年1月、2度にわたって山形、沖縄両県で放映されたのだ(『最後の米沢藩主 上杉茂憲 沖縄の民のため「義」貫いた男』)。放送時間は30分であったが、沖縄県民は、沖縄振興のため私財まで投じた上杉の功績に感銘を受けた。同時に件の反日史観に疑問を持ち始めている。
このドラマは、山形テレビ開局50周年・琉球朝日放送開局25周年記念番組として制作されたものである。オリジナルは『沖縄の殿様 最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮闘記』(高橋義夫著 中央公論 2015年5月25日刊)だ。
上杉は赴任当時37歳、英国留学を経て民主主義の本質を学習していた。この観点から沖縄近代化の基本は人材にあるとして、私財の大半を投じて奨学資金制度を確立したのである。
そして5人の地元青年を東京に送り大学教育を受けさせた。上杉の功績はその中に一人の農民出身者・謝花昇を加えたことである。これは沖縄史の観点から革命的な出来事であった。沖縄では本土と異なり農民は身分制度の最下位、「農奴」と表現したほうが妥当だった。
江戸時代、本土と沖縄の差異は文化面にも見える。前者は庶民文化、後者は薩摩藩士や中国冊封使をもてなす宮廷芸能が主流であった。
当時、国内の身分制度は士農工商、農民の社会的地位は高く、土地私有も奈良時代からすでに認められていた。さらに寺子屋教育によって識字率は世界トップクラス、天領に至っては農民にかなりの自由が認められていたのである。
沖縄の農民は対照的に自由がなく、土地私有も一切許されなかった。年貢は集落単位で課税され、しかも2~3年毎に耕作地を交替させられた。従って企業農業的発想も生産性向上の意欲も起きなかったのだ。
沖縄農民は当時人口の70%。対する士族は王都首里、那覇に居住し、両地域の人口の半分以上を占めていたが、非課税で、王府からの家禄に依りながら奢侈な生活を送っていたのである。その家禄の原資こそが農民から収奪した年貢(税)であった。上杉は赴任の翌年に上京し、政府へこの体制の改革を陳情している。
上杉赴任当時の沖縄は士族とくに中国帰化人の抵抗があって政府は旧王府体制を存続させていた(いわゆる「旧慣温存体制」)。
上杉は赴任直後から本島、および離島3島をくまなく巡視し、『上杉県令巡回日誌』を残している。これには苛斂誅求を極める沖縄農民の実態が描かれている。当時の農民は、裸足の日常、竪穴式住居に家畜と雑居し、文字は一切読み書きできないばかりか、自分自身の名前すら書けなかった。しかも徴税役人による税の二重取りも常態化していたのである。
当時の沖縄の徴税率はなんと8公2民。本土が5公5民であったことと比較してその重税の実態が理解できよう(ドラマでは「借金」と呼んでいたが正確には「重税」である)。
上杉陳情後21年が経過した明治36年(1903)、政府は旧慣を廃止した。同年、沖縄農民に対する土地の私有制開始(地租改正)。明治41年(1908)「沖縄県及び島嶼町村制」を施行、翌年、県議会が開催され、明治45年(1912)には第1回国政選挙が実施された。この時代の知事は奈良原繁(第7代)であった(詳細は後述)。
ところで平成28年2月、米沢市の上杉博物館で「上杉家の古写真展」が開催された。メインテーマは上杉茂憲県令関連資料の公開であった。要するに冒頭紹介したテレビドラマの原点である。
このとき『琉球新報』はこの写真展を大きく報道し、3日間にわたってそれぞれ紙面1ページを割いて連載した。ところが上杉が政府へ改革を具申した旧慣体制については一切触れなかった。同紙はあろうことか、上杉が県令在任中に撮影されたとされる写真を引用して、「琉球王国の栄華を伝える」と、王国礼讃した。
(後略)