記事(一部抜粋):2020年9月号掲載

政 治

コロナ後の世界展望と民主主義

政治評論家・山本峯章

 グローバリズムの終焉後、世界は、国家や民族、歴史や文化を軸とする一国主義にむかいはじめた。
 といっても、ブロック経済や欧米が地球上の土地の大半を支配した20世紀はじめの植民地・帝国主義とは異なる。
 国家の支配イデオロギーが、民主主義や自由・平等、平和主義などの空想的な観念論から、国益や自国ファースト、国家主義や国家理性、あるいは、他国敵視政策へ移り変わってきたのである。
 その流れに拍車をかけたのが、新型コロナウイルスの世界的流行で、国家はナショナリズムに立った一国主義のもとでコロナ防衛にこれ努めた。
 ロックダウン(都市封鎖)や罰則をともなう外出禁止令などの強権発動などがそれだが、憲法に「緊急事態法」がない日本では、せいぜい、国民にお願いすることしかできなかった。
 日本が罰則をともなう命令や禁止令、強制をうちだせなかった理由は、憲法に緊急事態条項がないこともさることながら、国家という概念が空中分解しているからである。
 日本では、国家主権や国家理性、国益主義が、悪とうけとめられる。
 一方、民主主義や自由、平等、人権やヒューマニズムが善とされる。
 日本には、憲法が国家を監視するためのものという憲法信仰があって、憲法99条で「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務」が謳われている。
 GHQが、占領基本法の恒久化を図った謀略だが、野党や労組、日教組や法曹界らの左翼は、これを悪用して、国家が憲法の下位におかれる憲法革命をめざしてきた。
 多くの日本人は、民主主義や人権、自由、平等をまもっているのが国家であることに思いおよんでいない。
 国家主権を他国に奪われると、国民が祖国のない流民となって、民主主義や人権、自由や平等が蹂躙される。
 世界の人々が、国家を大事にするのは、国家という後ろ盾を失えば、個人の財産や生存権ばかりか生命までがおびやかされると知っているからである。
 国家がなくなっても、民主主義や人権、自由や平等が天から降ってくると思っているのは、能天気な日本人だけである。
 世界で、民主主義が広く採用されているのは、多数決にまさる意思の決定手段がないから、あるいは、委任や独裁よりもマシな裁決手段だからである。
 ところが、多くの日本人は、人類の最高の英知といって、民主主義の文化的な価値をもちあげる。
 そのくせ、強行採決に反対と、多数決の結果をおもんじない。
 裁決を強行しない多数決も、少数派を尊重する民主主義も存在しない。
 民主主義は、多数決という方法論にすぎないので、文化的な価値をもたない。
 自由や平等も方法論で、自由は、なにからの自由であるかが問題で、平等は法の下の平等だけが問われる。
 人権も、国家主権の一部としての国民(個人)の権利であって、天や神から授かったというのではオカルトである。
 今回の世界的なコロナ禍で、改めて問われたのは、民主主義の真価だった。
 民主主義の先進国であるアメリカやヨーロッパなどでパンデミック(大規模流行)が発生したのにたいして、中国や台湾、韓国やベトナムなど国家権力がつよい国では、ある程度、コロナウイルスがおさえこまれた。
 コロナ防衛は、民主主義と全体主義のたたかいでもあって〝三密〟の回避やマスク着用、ソーシャルディスタンスは、民主主義や個人主義と折り合わない全体主義にもとづいた政策であった。
 したがって、欧米では、外出禁止令などにたいする反対デモが頻発した。
 全体主義は、当然、強制をともなうので、中国や韓国、台湾の罰則のきびしさは、語り草になったほどだった。
 欧米で、全体主義が反発を買うのは、民主主義ではなく、個人主義の風潮がつよいからで、パンデミックに突入しても、マスク着用は半数にみたなかった。
 コロナ後の世界展望において、民主主義のみを最良の政治手段とする時代は終わりを告げたとみてよい。
 コロナ以後、世界は、中国型の全体主義と規制をともなった民主主義に二分されることになるだろう。
(後略)

 

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