記事(一部抜粋):2019年11月号掲載

連 載

香港がポンペイになる日

【平成改め令和考現学】小後遊二

 1979年は鄧小平が改革開放路線に舵を切り、共産党一党独裁の下で資本主義を導入するという新たな試みに着手した年だ。いわば一国二制度が生まれた年と言ってもいい。今年はその40周年になるが、この改革開放がどれほど中国の経済発展に貢献したか、あらゆる数字が物語っている。
 例えば経済特区に上海とともに選ばれた深圳は当時人口40万人くらいの漁村だった。鄧小平の心の中を覗いてみれば「香港のおこぼれが欲しい」だったに違いない。当時の香港は人口約600万人、世界の金融センターの一つで、多国籍企業のアジア本部などがひしめく資本主義のメッカ。ただし土地が狭く人件費も高かったので、香港の資本家は鄧小平の期待通り、隣接する深圳に進出していった。といっても最初は(いまでこそ不動産や港運で世界的な富豪となった)李嘉誠が香港フラワー(プラスチックのイミテーション花束)を生産する、といったささやかなものだった。その深圳がいまや人口1400万人、GDPで香港や広東省の州都広州を凌ぐまでになり、今をときめく華為、中興通訊(ZTE)、テンセント、平和保険、DJI、BYD、鴻海などがひしめいている。新興企業の上場を司る深圳取引所は年間200社を超えるIPOを記録し、上海を抜いてトップだ。鄧小平は墓の中で「どうだ、狙い通りだろ!」と鼻をピクピクさせているに違いない。いまや深圳だけでなく珠江デルタの広州、珠海、マカオ、香港などを鉄道や高速道路が網の目のように繋ぐ「大湾区」が完成。世界で最も急速に発展する地域となって、ヒト、カネ、企業などが押し寄せるようになっている
 その一角、香港で異変が起きている。鄧小平の一国二制度は弟子の江沢民が国家主席だった1997年の香港返還時にもそのまま利用され、自治と自由主義経済が50年間担保されると誰もが信じていた。しかし国旗掲揚や国歌斉唱などの規律重視や、北京批判への干渉などが次第に強まり、2014年には行政長官の選挙が(民主化運動家が入る余地がなくなる)指名委員会制になったことで雨傘運動が起きた。今年に入ると逃亡犯条例改正案をめぐり議会が紛糾、遂に200万人を超える大規模デモが発生した。北京の顔色を見る林鄭月娥行政長官の退陣や、警察の暴力行為を調査する委員会の設置など「五大要求」を掲げた抗議活動はエスカレートする一方だ。北京はこれを「テロ行為」と呼び、世界がデモ隊に同情しないよう画策。「香港警察の手に負えなければいつでも応援に駆けつける」と隣接する深圳で軍隊や保安部隊が演習する光景をYouTubeで流している。50年続くと思っていた一国二制度が22年で「一国」になってしまうと危機感を募らせる若者たちは「身を挺して」抗議活動を続け、終わりが見えない。
 香港の将来を見限って東南アジア、オーストラリア、カナダ、台湾などへの移住を希望する人も増えてきている。企業活動にも悪影響が出ており、シンガポールなどは多国籍企業に「こちらにどうぞ」と呼びかけているし、マレーシアも富裕層の移住説明会を定期的に開催するなど切り崩しを図っている。このままでは香港が衰退し、中国にとっても大きな損失ではないか、と香港人だけでなく世界中が心配しているが、前の全人代で終身皇帝となった習近平の頭の中を覗いてみると、意外や意外、「あいつらが言うことを聞かず、西洋かぶれして中国政府に逆らうなら香港は潰しても構わない」という映像が見えてくる。鄧小平が夢見た「香港からおこぼれを!」が深圳で達成されただけでなく、中国には100を超える改革開放都市が出現した。28年後に香港が完全に戻ってきたときにもぬけの殻、廃墟になっていても一向に構わない。むしろ北京の言うことを聞かない地域は、チベット、新疆などに悪影響を及ぼすので、ないほうがいい。生意気な香港などベスビオスの火山灰で埋まったポンペイになってしまえ……。習近平の心象風景はそんな感じになっているのではないだろうか。

 

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