記事(一部抜粋):2019年2月号掲載

連 載

【柳は緑 花は紅】形山睡峰

真実と嘘と共にあっての平衡心

 人が嘘をつくのは、他人に対して己を真実に思わせたいためだと述べた。だれも己が嘘つきとは思われたくない。嘘をついてでも真実な者に思わせたいのである。
 しかし、わざわざ嘘をつかなくとも、始めから真実を述べてゆけば良いではないかと言う人がある。だから私は逆に「では己の真実を、いったいだれに正しく信じさせることができるのか」と、問うのである。
 例えば、またいじめの話になるが、学校でいじめられている子供が先生に訴える。先生は教室に出て、「A君がいじめられている所を、だれか見た者はあるか」と訊く。みんなは「見たことがない」と答える。うっかり正直に答えて、答えた者が後で酷くいじめられることを怖れるからだ。先生はA君の訴えた相手に直接訊くことにしたが、相手はいかにも心外な風を装って「そんな卑怯なことはしない」と答える。相手の仲間たちに訊いても否定されるが、なかの一人は「先生、A君は嘘つきですから」という。さあ先生は、どちらの言葉を信じたらよいのか分からない。「みんなが見たことはないというのなら、やはりA君が嘘をついているのかも知れない」と思うほかなかった。
 言葉の真偽を正しく見抜いて、子供たちにいじめがなくなるように導いてやるのが先生の仕事だろう。それでは先生失格だろうと、言う者がある。しかしそれがどれほど難しいことか、言う者は知らないのである。
 先生が凡庸だから難しいのではない。言葉の真偽を正しく見分けることが、難しいのである。社会生活のなかで多くの経験を積んできて、深く人生を考えることのできる者、人の心の酸いも甘いも噛みしめてきた者でなくては、よくなし得ない。たとえなし得る者があったとしても、見間違うことがある。まして学校と父兄と子供たちしか見て来なかった先生に、人の真偽を正しく見分けることを求める方が、どだい無理な話なのである。
 松本清張氏の『昭和史発掘』は、二・二六事件を題材にした著作だが、この事件に関わって捕われ、何年か獄につながれていた人から聞いたことがある。彼は「あの本に書かれていることは、多くが嘘だ」という。私が「どうして嘘なのか」と訊くと、「裁判記録を元にして書いているからだ」と答えた。「裁判記録なら正しい証言が記録されているのではないか」と訊くと、彼は笑いながら「裁判のときの証言など、正直に言うはずがない。正直に言えば罪が重くなるからね。被告はできるだけ嘘をついて、刑が軽くなるように証言するものだよ」といった。二・二六事件では多くの死刑者が出たが、彼は上手に嘘をついて重罪を免れた者だった。
 どうして真実を言わないで嘘をつこうとするのかといえば、真実を言えば己の犯した事実がみんなの前で晒されるからである。嘘を真実と思わせねば、死刑になるかも知れないことを怖れて、懸命になって嘘をついた。もっとも、死への怖れだけで嘘をついた訳ではない。ほんとうは別の、もっと緊急の理由が心の問題としてあった。嘘をつかねば真実との平衡(バランス)が保てないからだ。
 我々は体験の事実を、言葉では形に現すことができない。我々が日々に見たり聞いたりした体験は、言葉にしたとたんに体験自体から離れてしまうのである。たとえば「私が見た」と言っても、それは我が目に映った物を、「私が〇〇を見た」という言葉に限定させただけである。体験をどんなに言葉で言い現わしても、体験自体は言葉とは無縁のところにある。だから「私が見た」と言ったばかりに、言葉にできない体験の事実の方は、意識の中から外されてしまう。その事を我々は知らないできた訳ではない。「私が見た」と言ったとたんに、見たと思った一部分だけではなく、思わない体験自体もすべて呼び出されたことを予感してきたのである。たとえば「あなた」と呼んだとたんに、言葉にならぬあなたへの思いも、すべて呼び出されるようにである。
 だから我々は、言葉にできぬ体験事実の方も、何とか言葉に言い尽くしたいと願ってきた。日々に万言を費やすのも、この故である。体験事実のすべてを上手に言い尽くすことができれば、己の人生が真実になるように思うからである。しかし、言葉にしたとたんに、事実は概念化され、事実の一部分を言っただけになる。我々の心の喘ぎは、このことに拠る。そして、言葉にされなかった方に、むしろ事実の実際が在るように予感されるのである。「愛する」という言葉の虚しさも、言われたとたんに、言われない「愛」の内容の方が、言い尽くされていないように思われることに拠ろう。
 つまり、物の真実を余すことなく証明しようとすれば、必ず反対の偽りもすべて出し尽くさねば、正しく証明されない。我々の心は、つねに言葉で概念化された思いと、言葉化される以前の事実自体との平衡をはかろうとしてきたのである。そうしなければ、心が落ち着かず、不安にされるからだった。
 我々が嘘をつくのも、実はそうしなければ、己の真実との平衡が保てないからだった。真実ばかりでも嘘ばかりでも、一方に偏ったものでは、心は落ち着かない。たとえそれが明らかな真実であっても、大多数に批判される真実なら、無意味にされてしまう。大嘘をついてでも懸命に真実を隠そうとしたのは、そうする方が、かえって実際の真実と平衡が保てるように予感されたからである。ただ、そんなやり方に慣れてくると、いつか嘘が巧妙になる。嘘と真実の区別が定かでなくなってしまうから、危ういのである。
 戦前の新聞社はみな、戦争賛成の大合唱をやった。だから戦後は、その事実を忘れたことにして、戦争反対の大合唱になった。そうしなければ、平和な時代に心の平衡が保てないからだった。韓国人は日本の悪口を言わねば、心の平衡が保てないでいる。いつも他国の軍事力に頼ってきたから、自力で国を安定させる自信がない。そんな不信の原因を日本の植民地時代の所為にすることで、何とか国家独立の自覚を持とうとしている。日本は広島と長崎に原爆を落され、三十万人余の庶民が殺されたが、アメリカの悪口は言わない。その代わり経済力でアメリカに追いつくことで自信を取り戻し、心の平衡を保ってきた。
 どんな国にあっても庶民の心の平衡が保てなくなって、戦争になった。真実の現れることを怖れて、嘘をもって真実に思わせてきたことが、いつでも平衡心を乱す一番の原因なのである。

 

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