記事(一部抜粋):2018年10月号掲載

連 載

プーチンの謎解き

【平成考現学】小後遊二

 ロシアのプーチン大統領がウラジオストクで開かれた東方経済フォーラムで、安倍首相に対し「今年中に平和条約を結ぼう」「友人として付き合っていくうちに懸案事項の解決策も見つかる」などと発言した。これに対し安倍首相がほとんど無言だったため、野党だけでなく自民党内からも「けしからん」「日本政府の立場をもっとハッキリ言うべきだ」などの発言が相次いだ。マスコミに登場する“解説者”も「平和条約は領土問題が解決してから」と耳にタコができるほど聞かされてきたフレーズを口にしていた。
 どこの国でも政府のプロパガンダが繰り返されると、国民は次第にそれを心から信じるようになる。アメリカでは、日本に原爆を落としたのは戦争を早く終結させ、より多くの命を救うためだった、という説明を今では多くの人が信じている。中国では共産党が抗日戦争に勝利して人民を解放したことになっており、いつの間にか対日戦争勝利の日を共産党が祝う記念日まで確立している。その「勝利の日」に毛沢東が長江の上流に逃亡していたことを知っている中国人はほとんどいない。我が国の風土伝説の最たるものは「日ソ不可侵条約を破ってソ連が日本固有の領土である北方領土を略奪した。北方領土を返さなければ平和条約は結ばない」である。
 長谷川毅氏の『暗闘』(中央公論新社)は、第二次世界大戦で日本が降伏に至るまでの政治、外交の過程を浮き彫りにした力作である。終戦当時、日本はすでに当事者能力を失っており、アメリカのトルーマンが、「北海道を南北に分割せよ」と迫るスターリンの要求を退ける代案として「南千島(すなわち北方四島)を持っていけ」と提案するくだりが詳述されている。事実、ソ連が北方四島を占拠したのは戦争が完全に終わってからで、「日ソ不可侵条約を破棄したのではなく、戦勝の分け前として連合国から与えられた」というロシアの言い分が正しい。
 ソ連が南樺太と南千島で妥協し、北海道がドイツのように分割占拠されなかったことは、当時の状況を考えるとむしろ幸運だったとさえ言える。ロシアのラブロフ外相は「終戦時の経緯からスタートしなければ領土問題は解決しない」と何度も繰り返し述べている。
 一方、いつから日本は四島返還を要求するようになったのかといえば、終戦から10年以上経った1956年からだ。この年、重光葵外相がアメリカのダレス国務長官と会談し、日ソ友好条約で二島返還の合意ができそうだと説明すると、ダレスは「だめだ! 四島全て返還するよう要求しろ」と脅したと言われている。そうしなければ沖縄を返還しないぞ、というのがその真意で、米ソ冷戦が深まりゆく時期に日本がソ連と友好的になるのを妨害する魂胆だった。
 その時から外務省のビルの外側には「北方四島返る日平和の日」というノー天気な垂れ幕が掲げられた。「江戸時代から日本の領土だった」とか「ソ連が一方的に占領した」などとかなり苦しい理屈を並べ、60年間これを繰り返すことによって「四島返還」は風土病のように国民信仰となってしまった。
 安倍首相は20回以上にわたるプーチンとの会談でこのあたりの経緯を詳しく知ることになり、経済を中心に新しい協力関係をまず進める、という路線に切り替えつつあった。しかし、いまさら「北方四島をソ連にくれてやったのはトルーマンだった」とは言えない。
(後略)

 

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