記事(一部抜粋):2018年5月号掲載

連 載

【中華からの風にのって】堂園徹

民主制が最良とは限らない

 日本人は戦後の教育や世相などの影響で、民主制は善で独裁制は悪と思っている人が多い。しかし、民主制は政治形態として絶対的に善というわけではない。大学時代に聴講した政治学の授業では、「民主制はベターではあってもベストではない。いまだ人類はベストな政治形態を生み出してはいない」と教えられた。ベターにすぎない民主制が、どの国でも、その国の人たちにとって良い政治制度であるとは限らない。実際に世界の国々を見渡してみても、民主制がうまく機能している国は驚くほど少ない。
 民主=善、独裁=悪と刷り込まれた日本人の中には、中国が一党独裁国家であることを生理的に嫌う人が多く、そのため日本のメディアでは、中国共産党の独裁体制が崩壊に向かう……といった論調の記事がもてはやされたりしている。筆者が不思議に思うのは、共産党政権が崩壊した後の中国がどんな政治形態になるのかという視点が、それらの記事では全く示されていないことだ。共産党独裁政権の後は当然に民主政権が誕生すると思っているから、そのような視点が欠落しているのだろうか。
 台湾の総統だった李登輝は、大陸と台湾の関係を聞かれて、かつてこう言った。
「大陸に民主政権が誕生すれば、台湾と大陸の統一について検討することも考えられるが、中国の歴史から見て大陸に民主政権は永遠に誕生しない」
 中国の長い歴史を日本人が詳しく理解するのは大変だが、辛亥革命が起きた1911年から中華人民共和国誕生の1949年までの40年に満たない中国近代史を振り返るだけでも、李登輝が「大陸に民主政権は永遠に誕生しない」と言ったことが納得できる。
 革命家・孫文は、諸民族の平等と帝国主義の圧迫からの独立を訴える「民族主義」、民主制を主張する「民権主義」、国民生活の安定を目指す「民生主義」の三つを主張する「三民主義」を唱えた。こうした民主思想を持つ孫文が、清朝を倒して中華民国を建国したことは、独裁政権が崩壊して民主政権が誕生したという図式になるが、実際のところ、この革命は中国を大混乱に陥れ、国家滅亡の寸前まで追いやったのである。
 革命で誕生した中華民国政府は、首都を南京に定め、孫文が臨時大総統の職に就いたが、その時点ではまだ北京には清王朝が存立したままだったので、中国には二つの政権が南北に分かれて同時に存在していた。建国したばかりの中華民国政府には武力で清王朝を倒す力はなく、清朝内部の最高実力者で北洋軍閥の領袖である袁世凱と取引をせざるを得なかった。
 袁世凱は皇帝に退位を迫って清王朝を終わらせ、その功績から中華民国の臨時大総統の地位を得た。しかし北洋軍閥がある北京を離れようとせず、首都である南京に移らなかった。そのため、この政権は「北京政府」と呼ばれるようになった。
 その北京政府の顧問をしていたアメリカ人の政治学者が「中国を統治するには強力な指導者が必要だ」と説いたことから、袁世凱はこれを理論的根拠として「麻のように乱れた中国を一つに纏めるには自らが皇帝になる必要がある」と考え、もともとの野心もあって、帝政を復活させ国号を中華民国から中華帝国に改めた。
 だが皇帝になると、中国全土で抗議の嵐が吹き荒れ、北洋軍閥の中からも反発者が現れた。袁世凱は退位を余儀なくされ、失意のうちに病死する。袁世凱亡きあとの北京政府内では北洋軍閥の派閥争いが起こり、この混乱の中、各地の軍人が北京政府に従わずに独立した政権を形成したため、中国は軍閥が割拠する時代となった。
 一方、大総統の地位を袁世凱に譲った孫文は、袁世凱の独裁に反対して第二革命を起こしたが失敗して日本に亡命。東京で中華革命党(後に中国国民党に改組)を結成し、中国に戻ると広州で広東軍政府を樹立した。この広東軍政府も、孫文の死後は国民党内で熾烈な権力争いが起こり、最終的に蒋介石が権力を掌握して中国各地の軍閥を討伐する北伐を開始、北伐軍が北京を占領したことで北京政府は終了した。
(後略)

 

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