記事(一部抜粋):2017年9月号掲載

連 載

【コバセツの視点】小林節

狭山事件と再審の壁

 1963(昭和38)年に東京近郊の田園地帯でおきた女子高生誘拐殺人事件は、「狭山事件」として大きく報道された。
 当時、高校1年生であった私も、新聞やテレビでそれが大きく取り上げられていたことを覚えている。その後、石川一雄という青年が「別件」で逮捕され(これ自体が違憲・違法であるが)、本人が犯行を否認したままで裁判が進み、最高裁で無期懲役が確定し、本人は刑に服させられた。
 それでも石川氏は、一貫して冤罪だと主張して、今日まで再審を請求し続けている。
 憲法は、31条で「何人も、法律の定める(適正な)手続によらなければ……刑罰を科せられない」と保障し、続く32条で「何人も……(公正な)裁判を受ける権利を奪われない」と規定している。
 それを受けて、刑事訴訟法は、審理を尽くして確定した有罪判決でも「無罪を認めることが明らかな新証拠が発見された場合には再審が認められる」旨を定めている(435条)。
 確かに、本来的に不完全な人間たちが行う裁判である以上、誤審(冤罪)は起こり得るし現に存在した。だから、再審制度は人権保障の見地から必要不可欠なものである。
 そこで、狭山事件弁護団(中山武敏主任弁護人)が提出した新証拠の主なものは次のとおりである。①石川氏の自宅から発見され、脅迫状の訂正に使われたとして有罪の証拠にされた万年筆のペン先が脅迫状に使用されたものとは異なる……とする科学的鑑定。②石川氏が被害者の鞄を捨てたと自白した場所と実際にそれが発見された場所が違ったと確認した専門家の報告。③新たに開示された録音により、非識字者であった石川氏が警察官に強引に誘導されて自白調書を書かされた……とする科学的鑑定。
 上述の憲法と刑訴法に照らせば、これだけの新証拠でも、再審開始決定が当然であろう。にもかかわらず、裁判所は一向に動こうとしていない。これでは、「疑わしきは被告人の有利に」という、近代以降の文明諸国に共通すると言われる法格言は、わが国では、大学の教室の中だけの絵空事になってしまう。
 実際、高度の訓練を受けた誇り高き専門家集団に属する裁判官は、広義の同僚である検察官による有罪の主張を前提にして判断を下す傾向があるように見える。また、官僚制度でもある司法部の一員である裁判官は、その司法部が審級を経て下した有罪判決を自ら疑うことは司法部の権威に傷が付くとでも考えているのではないか?と思いたくなることがある。
 しかし、石川一雄氏の立場で考えてみたら、堪ったものではない。部落差別の中で生まれ育ち、貧しい家庭環境の中でまともに学校にも通えず、その故に定職にも就けずにいたら、突然、逮捕され、訳も分からないままに「拷問」としか評しようのない取調べで自白を強要されてしまった。後は、裁判でいくら無罪を主張しても、先の「自白」とそれに由来する「証拠」を根拠に有罪とされ、無期懲役の刑に服させられた。
 誰でも、警察官、検察官、裁判官が神ならぬ「不完全」な人間であることを知っている。だからこそ、三権分立制度も三審制も再審手続も存在している。そして、今回の事例にこそ再審の道を開き司法の見識を示すことが、むしろ制度への信頼を高めることになるのではなかろうか。

 

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