記事(一部抜粋):2017年7月号掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

なぜ消えたのか、日本人論

 かつては日本人のことをひやかし半分で「日本人は何者かと論じたがる人々」と呼ぶ者が多かった。日本は外国とどこが違うのか、ということについて日本人は良かれ悪しかれ敏感だったということである。たとえば昭和の末期にあってすら、いわゆる「日本的経営」のことがよく取り沙汰されていた。日本の企業は(松下幸之助のいう)家族的経営なのであって、そこではオン・ザ・ジョブ・トレイニングつまり「仕事を通じて訓練を積むこと」、それが日本的経営の核心だとみなされていた。その体制を守るためには被雇用者が当該の企業と長期契約を結ぶことが必要だ、とされていたわけだ。こうした議論がこの四半世紀きれいさっぱりと消え失せてしまった。
 ところが平成に入る辺りから、ほとんど一切の日本人論が声を潜めてしまった。それも当然であって、平成時代を覆っていたのは一言でいうとグローバリズムもしくはアメリカニズムであったからだ。世界標準に合わせていき、アメリカ流に適応して生きる、それが日本人の進むべき方向だとなってしまえば日本人論などむしろ有害の代物だということになる。アメリカの示すグローバル・スタンダードに身の丈を合わせるべく「日本人らしさ」を抹消してきたのが平成時代だといってもいい。
 だが、現在の世界にあってグローバリズムの破綻のあとにナショナリズムが再び三たび頭角を現している。グローバリズムにおいて覇権を握っていたアメリカにあってすら、世界の警察であることや世界の模範であることを止めるしかない、それ程に今のアメリカは衰弱し混乱している。EUは、今や各国がナショナリズムを表明するせいで崩壊の寸前にまで至っている。それだけでなく、世界全体を見渡すとアメリカの侵略的な軍事覇権に抗して様々なテロルによる反抗が止むことがないといった気配である。そうならば我が国もまた、日本としてのナショナリティ(国柄)を再確認するほかないのに、今もなおナショナリズム(国民主義)は政治的悪に近いものだとみなされつづけている。
 日本の現政権下にあって、国家経済にとっての成長戦略やインフラ整備計画などが論じられていはする。しかし、それを実行するのは日本人自身なのであるから、日本人がそれらの戦略や計画をいかに受け入れていかに実現するかが問題になるはずである。そのためには日本人論を準備しておくことが是非とも必要になる。
 日本人の特殊性をここで指摘したいのではない。逆に我が国は、有史以来、様々な文化のいわゆるハイブリディティ(雑種性)によって際立っている。ほかの言い方をすると日本文化はコンプリヘンシヴ(包括的)だということである。だが問題なのは、自らの包括性にたいするコンプリヘンション(包括的な理解)が決定的に不足している。つまり、様々に多様な文化的要素をインテグリティをもって捉えるのにどうやら失敗してしまったのである。
 ここでインテグリティというのは、総合性・一貫性・誠実性ということを指す。例を江戸期にとると、幕府の官学たる朱子学に抗して日本人の感情の根元を尋ねようとする国学や、状況に応じた行動学の必要を唱える陽明学などが押し出されていた。ところが今のグローバリズムは抽象的理念を展開しているにすぎない朱子学と同工異曲のものである。そういう謬見を広めた者たちの責任も何一つ追求されていないときている。それもそのはず、対米追随という形での独立心の弱化、という「戦後的なる路線」が完成の域に達してしまったのだ。中国からではなく、アメリカからの「朱子学」、それがグローバリズムの嵐であり、その嵐によって「日本的なるもの」が吹き飛ばされてしまったということであるに違いない。惨状というしかない有り様ではある。
(後略)

 

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