記事(一部抜粋):2016年6月号掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

イノヴェーション流行の罠

 笛吹けど踊らずではあるが、「規制緩和によるイノヴェーションの推進」、それが成長戦略なるものの眼目である。ただし、シュムペーターのいった「革新」は長期の歴史的スパンにおける資本主義の動態としてであるが、今いわれているのは短期かつ連続的な革新の鬩ぎ合いのことである。イノヴェーションの垂れ幕が各企業の表看板に掲げられているわけだが、そこに含まれているいくつかの大矛盾のことについて、政治家はむろんのこととして、エコノミストが気づいているとは思われない。革新さるべきはまずもって彼らの「革新信仰」つまりテクノマニアック(技術狂)ぶりなのではないか。
 イノヴェーション教徒が市場原理主義者に多いというのはまさに奇観である。一つに、現代のイノヴェーションはいわゆる「資本使用的」であって「労働節約的」である。だから、イノヴェーションの連続の果てに生じるのは資本分配力の増大と労働分配率の減少であり、それは国内の製品購買力の低迷という事態をもたらす。だから、国内経済の停滞はイノヴェーション競争の当然の帰結なのである。二つに、それに加えて、イノヴェーション競争は経済を独占化する。なぜなら、イノヴェーション競争に(先行して)勝利した企業は独占利潤を獲得し、その利潤を資本としてさらなるイノヴェーションへと邁進し、独占体をいっそう巨大なものにしていくからだ。ここで、はっきりと確認しておくべきは、エコノミストの経済論は、一方で自由競争の効率性を礼讃しつつ、他方でイノヴェーションの推進を称揚してやむことがない。自由競争と独占形成は、市場の在り方として、正反対である。その矛盾というより背理のなかで胡座をかいているエコノミストの精神の混濁はもはや清浄不能の域に達している。
 独占体が独占利潤を貪るということは、他の(とくに中小の)企業が損失を被るということで、それを(実質の)投資収益(r)で表せば、r〈0つまりマイナスとなり、成長への意欲も可能性も失うということだ。今の世界経済がロングラン・スタグネーション(長期停滞)に陥っているのは、この経済のアズ・ア・ホール(全体として)の投資収益率が低落するばかりでマイナスとなり、世界経済が成長しえないということをさしている。
 で、金融当局は(日銀がその見本であるように)「公債を買い取って市場に貨幣を供給し、いわゆるインフレ・ターゲットを実現する」という目的に向かう。だが、それで利子率を下げたとて、イノヴェーション競争に勝つ見込みを持たぬ企業がおいそれと投資需要を増やすわけがない。残るのは、少々のインフレと低収益率(さらには高損失率)という現実のみである。
 市場全体では、それが競争的であるかぎり、金融投資の収益率(利子率)と実物投資の収益率(r)に物財のインフレ率の和とが均衡する。つまり、i=r+πの均衡がおおよそ成り立つ。そこで利子率がマイナスになるということは何を意味するか。r(実物投資収益率)がi─π以下のマイナス(日本ではマイナス1%以下)になっているということだ。要するに、マイナス金利の意味するところは、実物投資収益率がはっきりとマイナスとなった、それが経済の平均的な姿だということなのである。
 いずれにせよ、危機といってもよいし長期停滞といってもよいが、資本主義が抜き差しならぬ難局に差しかかっているということだ。そのなかで「成長戦略」とやらをいうのは、「元気づけ」の空文句としての意味が少しはあるだろうものの、それ以上のものではありえない。マイナス利子率に少々の意味があるとしたら、公債の利子負担が軽くなるので、うまくやれば、公共投資をしやすくなるという点だ。この点を強調すれば、経済は、ステート・キャピタリズム(政府資本主義)という形で、社会主義の色合を多少とも強めていくであろうと予測される。それは市場原理主義と似てもにつかぬ経済観で、それすなわち、この間のエコノミストの言説がまったく見当外れであったということだ。マイナス利子率の背景にはかかる深刻な事態が広がっているのである。
 独占体が最も安全確実に収益を挙げることができるのは、政府(とくに軍隊)を動かす場合である。今の世界に「第三次世界大戦の前哨戦」といった気配が漂っている背景には、巨大なファンドを握ってはいるがその有利な投資先をみつけられないでいる独占体もしくはその資本家集団の政府へのはたらきかけが見え隠れしている。
その意味では、マルクス経済学派の国家独占資本主義論のほうが正鵠を射ているのだ。ただしマルクス派には、それがイノヴェーションの帰結であることがわかっていないし、国家とは「国民とその政府」のことであることもわかっていない。つまり、「政府と独占」の癒着を認めたり喜んだりしているのはむしろ「マス化した国民」のほうであることを看過している。
(後略)

 

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