記事(一部抜粋):2016年6月号掲載

政 治

【コバセツの視点】小林節

私にも「信教の自由」がある

 前回論及した私に対する誹謗中傷は、かつて私が特定宗教と関わりがあったことも指摘している。
 憲法20条は、全ての国民に信教の自由を保障している。それは、その手段が犯罪でない限り、私たちは誰でも、布教を受ける自由と、それが信じられると思ったらそれを受け容れる自由と、逆に、納得できないならそれを受け容れない自由と、それを受け容れた場合でもそれが信じられなくなったらそれを吐き出す自由も含んでいる。
 私は、外形上明らかだが、生まれつき左手に障害がある。だから私は、幼い頃から「なぜ私は特別なペナルティー(不自由)を背負って生まれて来たのか?」が不思議で、その事(人生の意義・本質)を毎日、考え悩みながら生きて来た。
 そんな私が学生であった頃の大学は、学園紛争で騒然としていた。キャンパスでは左翼と右翼が論争し時に殴り合っていた。そのような状況の中で、民青(共産党系)の級友と「資本論」を読み切ったり、原理研究会(勝共連合系)の学生と「原理講論」を読み切ったこともある。これも当時はよくあった青春のパターンである。その後、アメリカ留学中には、エホバの証人の「真理」という基本書をMITの秀才と英語で読み切ったこともある。
 しかし、いずれも心の奥で深く納得することができず、時間とともに距離ができてしまった。
 帰国後、大学の教壇に立ったが、そこで優秀な学生集団・第三文明研究会に出合い、創価学会を知った。そこで、ある幹部の忍耐強い協力を得て、「立正安国論」講義を読了した。加えて、自分が正しいと信ずる事のために命を懸けて国家権力と戦った日蓮の生涯と、池田大作博士にお会いしてその人格に魅了された。ただし、現実の公明党議員たちの言動が「立正安国論」とは似て非なるものに見えたので、私の心は自然に彼らから離れて行った。
「宗教は愚か者のアヘンである」という唯物論者の見解もあるが、私は、宗教は、地球上の全ての生物の中で人類にしか存在しない高度の精神現象である……という事実を直視している。だから、私は、宗教も宗教者も馬鹿にしていないし、機会があればそこから何か人生の鍵を得たいといつも考えている。
 私は、教授昇進論文のテーマに「信教の自由と政教分離」を選んだ。それが私の人生の最大の関心事だから、自然にそうなった。ある記者がこのような私を評して「宗教オタク」と呼んだ。言い得ていると思う。
 また、私が若い頃から有名な大学の教授コースを着実に歩んで来た人物であるだけに、いずれの宗教団体も私の名を「関係者」として社会に示したがる傾向があったのは事実であるが、私はそれを特権の代償として甘受してきた。
 しかし、今回の怪情報は、国政選挙という政治決戦を前にして、学者としての良心に照らして、根拠を示して、自由と民主主義を守るために特定の政治的立場を鮮明にしている私を傷付けることだけを目的にした名誉毀損以外の何ものでもない。だから、私はそれに屈することはできない。
 改めてここで確認しておくが、今、私が自分の政治的見解と立場を明らかにしていることは、私にも憲法で保障されている人権としての、学問の自由、表現の自由、結社の自由、参政権の行使である。
 それに異論のある者は、自分の立場(意見)を、理由を明示して表明すべきが筋である。にもかかわらず、匿名の暗闇から加工された誹謗中傷情報を流す行為は、表現の自由の名で保護されるに値するものではない。だから、法的対抗手段を予告しておく。

 

※バックナンバーは1冊1,100円(税別)にてご注文承ります。 本サイトの他、オンライン書店Fujisan.co.jpからもご注文いただけます。
記事検索

【記事一覧へ】