記事(一部抜粋):2016年3月号掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

憲法をめぐる米国との確執

 来る参院選が衆参同時選挙となり、そこで憲法改正派が国会で3分の2を上回ることになれば、いよいよもって憲法9条第2項の非武装・不交戦の条項を削除する政治スケジュールが具体化するであろう。というのも、そうなることをこの憲法の実質的な制定者であるアメリカが望んでいると思われるからだ。つまり軍事的失敗を繰り返してきたアメリカは、極東における影響力を保持するための負担を日本に肩代わりさせる、ただし日本をおのれのプロテクトレート(保護領)にしておいたままで、と算段しているに違いないからだ。
 憲法改正の必要それ自体はあまりにも当然のことだ。しかし、それがアメリカを利するために行われる、というのでは日本国家としてあまりにも情けない。「アメリカからの独立」という目的をも含んだ憲法改正でなければ、それが改悪となる虞れがあるのみならず、改正論議をめぐって国論が分裂し、日本が国家としてこれまで以上に弱体化するであろうと予想される。
(中略)
 沖縄に米軍基地の7割があるという現実にたいして沖縄県民(の多数派)がいよいよもって不退転の反発を表明しはじめたのは当然である。自尊自立の精神を失わぬ日本国民なら、こうした沖縄県民の動きに好意を示さざるをえずの心理状態になるのもまた自然の成り行きといってよい。
 だが真に論じられるべきは、一つに、日本の自衛隊を強化して米軍を国外に撤退させることであり、二つに、その自衛強化の布陣にあって沖縄という地点をどう位置づけるのか、ということではないのか。ついでに付言しておくと、沖縄を自衛隊強化の中心地点としないというのなら、今の沖縄県民の多くが「基地に依存して暮らしている」という現実にあって、沖縄にやってくる苦境を放置するのか、それともこれまでの70年間にわたる沖縄県民の労苦に感謝して沖縄援助を続けるのか、ということが問題となる。
 小生の構えをあえて具体的にいってのけると、アメリカ軍には10年かけて沖縄から去ってもらい、沖縄県には半世紀に及んで生活援助を続ける、というものである。そんな計画が順調に進むとは思われないが、その種の長期計画を立てないかぎり、沖縄は永久の「問題」として残りつづけるしかあるまい。辺野古から宜野湾への米軍基地の移転などは瑣末な問題にすぎない。日本軍にとっての沖縄をどう位置づけるかという日本独立の展望のなかで沖縄の扱い方、それをこそ論じなければならないのだ。
 だが、その長期計画においてとて、アメリカからの独立のみが問題なのではない。中国の「尖閣を切っ掛けとする沖縄への覇権拡張の野望」にどう対処するか、それもまた喫緊の重大事だ。しかもそうした中国の覇権欲にアメリカが宥和の姿勢をとることも、長期的展望のなかでは、ありうるとみなければならない。その点では、沖縄を自衛隊の重要基地とするのは、そう簡単に捨てられる案ではない。沖縄県民の立場からいえば、チベット族やウイグル族と同じく中国の属領民となって苦吟するのか、それとも日本軍に基地を提供して日本政府からの援助を受けつづけるのか、という選択が(長期的には)つきつけられていることになる。
 こんな難問がおいそれと解決されるわけがない。沖縄県民は、まずもって、自分らのモーレス(習俗)とエートス(根本感情)を日本と中国のいずれに近いとみるか、それとも第三の道をとって(日本や中国と戦うことも辞さずに)沖縄独立に決起するのか、について議論しなければならないのである。
 モーレスとエートス、それこそ憲法なるものの根本である。それが当該の地に暮らす人々にとって共通の「根本規範」の母体となりもする。ウチナンチュ(沖縄人)であれヤマトンチュ(大和人)であれ、あの大戦以来、モーレスとエートスを弱めていくばかりであった。それが「列島人」をして文化的かつ政治的な劣等人と化さしめているのだ。そのことを直視しないような憲法改正論がもうじき日本列島を大いなる騒擾に落とし入れることを想うと、心ある者は憂鬱にならざるをえない。
(後略)

 

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