(前略)
マジョリティ・ディシジョン(多数決)とは、逆からみると「少数者の排除」である。議会がその趣旨通りに機能していて、少数派の意見にも何分かの理があると承認されて、多数者が意見を修正するというのなら、議会制民主主義はたしかに最も現実的で最も安定的な政治をもたらすであろう。しかし、そんな寛容な議論が議会で行われた形跡は、かつてはあったのだが、今は消えてしまった。「民主主義は数だ」(田中角栄)、さらには「民主主義は多数決だ」(小沢一郎)という暴言が今では民主主義政治の常道にまで固まってしまった。
となると、政府の役人はその暴虐に満ちた常道に沿ってしか政策を立案できない。そんな者たちからなる政府の国家に対する舵取りが迷走するのは当然のことだ。国家が迷走して危機の時代の波間に沈むことが予見されると、否応もなく、「指導者民主主義」(M・ウェイバー)が必要となる。だが、有能な指導者をマス(大量人たち)のなかからいかにして政治の最高段位に登らせるのか、それが可能となるのは、マスデモクラシーあるいはデモクラティズムはおおむね間違った国家の舵取りしかしない、ということを大量人たちが認識し、かくて大量人がオーディナリーマンあるいはコモンマン(通常人)に復帰するときである。
(中略)
民主主義によって選出される政治家には、多くを期待できない。彼らは、選挙ではじかれることを恐れて、世論のたまさかの欲望やいきがかりの行動や思いつきの意見に迎合しがちだからである。それにたいし政府官僚(役人)は選挙の洗礼を受けない。そのぶん、政府の舵取りにおいて自主性を保てるのである。
しかし、近年、役人が首相官邸あるいは内閣にすり寄る傾向が顕著にみられる。おのれの立身出世のためにそうしているのであろうが、政権は役人の生涯のあいだに幾度も変更されるのであるから、役人は国家にかんする展望に確かなものを有しているのなら、政権の動きに右顧左眄する必要はないのだ。役人が政権のまわりに群がるという近年の傾向はどこからやってきているのか。それは、役人の精神そのものが世論に迎合するようになっているからだ、と思われてならない。
それもそのはず、役人は個々の在り方としては、金融専門とか土木専門とかいうふうにスペシャリスト(専門人)であるにすぎず、国家全体を展望するのに必要な総合知を欠いているに違いないのだ。よほどに偉大な役人でなければ、総合知を持つということなど不可能である。しかし、知識のうちに、分析知だけでなく、経験知や想像知をも含めれば、総合知に近い境地に達せるはずである。「国民とその政府」としての国家について処方箋を書く者としての役人には、可能なかぎり総合的な技術知と実際知の両方を持つべく努力する義務があるのである。
なぜ役人のことに言及したかというと、これからの国家は、未来があまりにも危機に満ちているため(J・ミードのいった)インディカティブ・プランニング(示唆的計画)を必要とすると思われるからである。ここでインディケーションというのは「指示」といった強いものではない。国家の進むべき「大まかな方向」についての「大まかな準備」、それをなすのがインディカティブ・プランニングなのだ。
その仕事を回避して市場原理主義に任せる経済政策(という無政策)や日米同盟の美名の下に対米依存にかまける防衛政策(という無政策)は、役人として恥ずべき無作為である。
(後略)