首相の「談話」は、歴史認識とやらをめぐる中韓からの過剰にして口汚い対日攻撃をどう躱すか、という政治文書として上出来であった。しかし相手の政治に絡むのが政治の常道であるから、安倍首相のレトリック(修辞)を非難するレトリックが日本海の向こうから次々と発せられるに違いない。そんなものを相手にしている余裕が当方にはないので、ここは一つ腰を落ち着けて、日米同盟なる軍事のレトリックについて論じておこう。
私は日米同盟なるものを度し難い虚構とみている。だから、安保法制改定も、アメリカの覇権の下に利用されることの結果、日本の対米属国化をいっそう推し進めるのではないかと懸念している。しかし、「日米同盟の虚構性」は、一つに、戦後70年の経緯を伴うものであるから、安倍政権だけで脱却できるほど底の浅いものではないし、二つに、経済や文化にもかかわる総合的な問題であるから、国会の法制論議だけで始末のつくものでもない。つまり(とても可能とは思われないものの)「世論の後押し」がなければ、どんな特定の内閣もこの虚構の仮面を日本国家の顔から引き剥がすことはできないのだ。
ところが、そこに憲法学者の手合いが次々と登場して、「安保法制改定は違憲なり」と宣い、それにつられて世論では「憲法改正してのちの安保法制改定」という主張が幅を利かせつつある。しかしそれは、一聞したところでは筋の通った言い分と思われるが、法匪つまり「法を盾にしての悪しき政治の横行」である。国家の根本規範たる憲法は「国民の歴史的なるものとしての良識」によって支えられるものだが、法匪はその良識を踏みにじって恥としないのである。
現憲法の9条第2項における「非武装と不交戦」の規定は文句なしに悪法である。「自衛のための武装と交戦」をも禁じるのは悪法以外の何ものでもありはしない。憲法学者連はそのことを明言しないという点で、徳義から外れている。もっというと、「悪法に従うなかれ」と提言しないのは、卑怯であり臆病であり軽率であり横柄であり、要するに不徳義そのものである。
「悪法もまた法なり」(ソクラテス)という言葉を、コムプライアンス(遵法)の精神とやらに立って「悪法でも、それを改正するまでは守るべし」ということだと解するのは『ソクラテスの弁明』(プラトン)を読んでいないか、もしくは誤読しているからである。ソクラテスがいったのは、「悪法も法だから悪しき為政者によって執行されるであろうが、それを避けるべく脱獄するのは面倒なので、自分はさっさとあの世に逝って旧友と語らいたい」というだけのことである。
あっさりいうと、9条第2項の悪法を遵守するのは悪しき政治なのだから、徳義ある憲法学者ならば、その規定は「1954年に自衛隊が誕生するのと同時にすでに死文と化せり」と認めなければならない。そして「死文にこだわるのでは国家の根本規範を守りえないよ」と政治家および国民に向かって説かなければならない。
この憲法にはほかにもいくつもの善法ならざる規定が含まれているが、それらにはある程度まで解釈の幅がある。たとえば「国民主権」についていうと、「国民」は「現在世代のみならず歴史上の総国民」のことをさすのではないかとか、「主権」が存在するのは「現在世代の多数派の世論ではなく、歴史の残した伝統の精神」なのではないかといった議論が可能になる。だが9条第2項の非武装・不交戦の規定は、ほとんど物理工学的な種類のものなので、解釈の余地なく悪法なのである。
安保法制のことに話を戻すと、今次の改定は(法律の次元のみでいうと)当然のこととみなしてよい。だが、法律の機能するのは経済・政治・文化にもかかわる社会(この場合は国際社会)の場においてである。つまり、「日米関係」の(大東亜戦争後ばかりか)近代史の総体が正しく把握されなければ、当該の安保法制の実際的な機能について喋々することはできないのである。
そのうちのほんの一要素のみを取り上げてみると、ブッシュ・ジュニア大統領の(英国を巻き込んだ)イラク攻撃は(CIAの誤情報に起因する)侵略戦争であったと、米英の議会特別調査委員会が公式発表している。ところが日本は、その侵略に加担したにもかかわらず、「イラクにおける大量破壊兵器の不在はフセイン大統領の証明すべき事項であった」といってすましているのである。つまり、我が国のアングロサクソンへの同調はあきらかに過剰の域に達しており、従順を通り越して迎合、迎合を通り越して屈従に至っているとみざるをえない。つまり、日本の自立が夢物語であるからには、日米同盟もブルシットたらざるをえないのである。
「戦争放棄」条項は第2章におかれているので、あたかも現憲法の根幹部分をなすかのように受け取られている。そして、カール・シュミットの言を俟つまでもなく、「所与の憲法の下で」その根幹部分を修正するのは許されない。それは既存の法体系にたいする(根本的変革としての)革命なのであって、そのためには(何ほどか独裁的な)新憲法制定権力を必要とするのである。と考えれば、9条第2項の改定は、日暮れて道遠しの、ほとんど不可能な所業と思われてくる。
だが、その第2項はいわゆる「芦田均修正」であって、1946年の第90回帝国議会におけるドサクサの混乱し切った憲法論議のなかから飛び出てきたものにすぎない。それのみならず、その「前項(侵略戦争の禁止)の目的を達するため、陸海空その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」という文言が、実のところ、噴飯物の戯言であって、それを憲法の根幹部分とみなすのは烏滸の沙汰なのだ。
なぜといってその文言は、「日本人は(カイロ宣言にいうごとく)野蛮民族なので、自衛用の武器をかならず侵略用に使うに違いない」とみているか、もしくは「日本人の精神年齢は(マッカーサーGHQ最高司令官のいったごとく)12歳程度なので、自衛と侵略の区別を他国並みに行うことができず、自衛のつもりで侵略をやりかねない」とみているということになる。百歩下がって日本民族が野蛮か阿呆だとしても、それを高らかに公言して国家を建てるというのは、もはや憲法(国家の根本規範)の名に値しない。結局、9条第2項は「憲法の枝葉にある腐った代物」とみなさざるをえないのである。で、そんなものは「自衛隊という戦力の登場とともに死文となって消え失せり」と片づけてよい。そのことを公言しないような憲法学者は要するに曲学阿世の徒にすぎない
(後略)