記事(一部抜粋):2015年6月号掲載

連 載

【中華からの風にのって】堂園徹

人狩り

 戦時中に日本の企業が中国人を日本に強制連行して強制労働をさせたとして、中国で賠償請求の裁判が起こされている。過去にもこうした訴訟は起こされているが、日中関係に配慮する中国政府の意向が働いて、中国の裁判所は受理してこなかった。しかし昨年3月、中国人元労働者ら40人が三菱マテリアルなど2社を相手取り1人1000万元(約1900万円)の損害賠償を求めた訴えを、北京市第1中級人民法院(地裁に相当)が初めて受理。今年4月には原告・被告の代理人を集めて意見を聞くなど開廷に向けて手続きを進めていることが明らかになった。
 強制連行や拉致はあってはならないことだが、中国では古代から現代に至るまで、時の権力者が一般庶民を連行して徴用するのは決して珍しいことではない。その際たるものが世界遺産の「万里の長城」の建設工事だろう。
 万里の長城は宇宙から唯一見ることのできる建造物と言われ、人類史上最も長大な建物である。しかし、この長大な城壁をつくるために流された人々の血が夥しいものであることは、「孟姜女」という伝説が数千年に渡って語り継がれていることからも分かる。
 孟姜女とは中国の民間伝承に登場する女性。彼女の夫が、秦の始皇帝(在位・紀元前246〜221年)の時代、強制連行されて万里の長城を建設するための人夫として徴用された。寒い冬になっても帰ってこない夫を心配した彼女は、両親の反対を押し切って夫探しの旅に出る。女一人の旅で想像を絶する困難に遭遇しながら、彼女は何とか万里の長城の建設現場に辿り着く。しかし、夫は過酷な労働に耐えられず、すでに死亡していた。
 現場では毎日たくさんの人間が死に、死体は墓に埋められることなく捨て置かれる。彼女は夫の亡骸を見ることもかなわず慟哭する。その泣き声があまりに大きく激しかったため、長城が数里に渡って崩れ落ち、その瓦礫のなかから夫の亡骸が出てきた──。
 万里の長城は始皇帝以前の戦国時代からつくられ始めた。始皇帝のあとも何度も修築され、明代になって現在のような形になったが、始皇帝の長城建設が最も苛烈を極め、多くの人が死んだ。万人に塗炭の苦しみをもたらしたがゆえに「孟姜女」のような伝説が今に伝わるのである。
 始皇帝は数十万人を集めて1500キロに及ぶ長城を建設したと言われるが、100万人を徴用し、北京から杭州まで2500キロの京杭大運河を完成させたのが隋の煬帝(在位604〜618年)だ。この大運河も世界遺産に登録されているが、隋も秦と同様、苛烈を極めた土木工事で国が疲弊、間もなく滅亡している。
 民間人を徴用して労役や軍役に従事させるのは、どの国の歴史においても見られることで、第2次世界大戦が終わると、ソ連は降伏した日本兵をシベリアに抑留して過酷な労役を強制した。中国共産党も戦後、満州に残った日本人を拉致。男は国民党軍との内戦で兵隊として使い、女は看護婦にしている。
 国民党も街や村で中国人の若者を見つけると、有無を言わさず拉致して兵隊にした。そうして軍隊に入れられた者は、国民党が敗北して台湾に逃げ込むと、一緒に台湾に連れていかれた。大陸と台湾はその後30年以上にわたって断絶したため、彼らは大陸の家族と音信不通の状況に置かれることになった。台湾ではこのように歳を重ねた兵隊を「老兵」と呼んでいる。
 老兵は数十万人いるとも言われ、除隊後は身寄りのいないまま孤独老人になる者もいれば、台湾女性と結婚して新しい家族を築いた者もいる。
 また、台湾の女性と結婚した者のなかには、拉致された時点ですでに結婚して子供がいた者もいて、大陸の家族と台湾の家族の狭間で葛藤に苦しんだ者もいる。
 彼ら老兵は間違いなく、中国の歴史と政治に人生を翻弄された犠牲者だ。ここで、ある老兵の凄惨な人生を紹介する。
 李軍(仮名)は江蘇省のある村の農民だった。1948年のある日、塩を買いに出たところ、突然パンパンと鉄砲の音が鳴り響き、周囲の人々が一目散に逃げだした。人々は「人狩りだ」と口々に叫んでいる。李軍も逃げようとしたが、鉄砲を持った男に捕まってしまう。
 李軍は「自分には2歳になったばかりの娘がいる。見逃してください」と哀願したが、銃口が彼の頭に突きつけられる。
「命と娘とどっちが欲しいのか」
 李軍はそのまま軍隊に入れられた。21歳だった。軍隊は国民党軍で、彼はほとんど訓練を受けることなく、上海を防衛する部隊に配属された。
 1949年5月、上海が共産党の解放軍に落とされると、李軍は解放軍の捕虜になった。捕虜になった兵士の大半は、人狩りで国民党軍に連行された者たちだった。
 解放軍は年嵩の兵は故郷に帰らせたが、若い者はそのまま解放軍の兵士として使役した。李軍も解放軍の兵士になった。解放軍での上司は、同じ故郷の出身の遠戚だった。
 その年の10月、李軍は金門島への上陸を命じられた。金門島は国民党軍が解放軍の攻撃から死守した島で、彼はそこでまたも敵軍の捕虜になる。そして再び国民党軍の兵士になったが、その際に上司になったのも同じ故郷の出身者だった。李軍はこの時、この戦争が同じ中国人同士の争いであることに思い至る。
 55年、李軍は台湾で除隊となった。しかし、大陸反攻を唱える蒋介石の台湾と、台湾解放を目指す毛沢東の大陸は準戦闘状態にあり、故郷に帰るのは不可能だった。もともと農民だった彼にできる仕事はなく、ゴミ回収で飢えを凌ぐ生活を強いられた。
 87年に台湾と大陸の往来が解禁されると、彼は故郷に手紙を出した。しかし返信がなかったため、大陸に帰るのを諦めた。
 2014年、ボランティア団体が、別れた時に2歳だった彼の娘を探し出した。68歳になっていた娘は台湾を訪問し、66年間生き別れだった父親と対面するや、抱きついて泣き崩れた。
 49年に大陸と台湾が分断され、87年に大陸にいる家族や親戚との交信が解禁されるまでの38年間、老兵たちはどんな思いで日々を過ごしたのか。
 共産党政府も国民党政府も、彼らに何の補償もしていない。

 

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