記事(一部抜粋):2015年5月号掲載

連 載

【「無心」という生き方】形山睡峰

恒の心なければ、し放題となる

 日々に新聞とテレビの情報に接していれば、現代社会に通じているように思っている者は多い。ところが、マスコミは善い話はあまり伝えない。むしろ、世の中の悪事を告発することに熱心である。政治家が違法な献金を受けたとか、商人が裏取引で不法を犯したとかいうようなことは細かに報じて、真面目な読者を憤慨させる。また惨忍な殺人事件がおこれば、その犯人がどんな歪んだ育ち方をしたかを伝えて、大衆の大半が善良な市民であることを教えてくれる。こんな情報だけに毎日触れていれば、日本が愚かな国のように思う人も増えるだろう。
 ある日ラジオを聴いていたら、「こんな暗い世の中に生きている我々は……」と語る人がいて、驚かされた。日本はとても暗い社会のように思っているのである。
 日に一食を得るのもままならず、雨露をしのぐ家もない。やっと手にいれた食料やお金も、油断すれば盗られて、下手をすれば命までも奪われる。世界で明日にも飢え死にしそうな子供たちが、七億人はいると聞く。日本の全人口の約六倍である。今日一日を無事に過ごせるかどうかも分からない、不安な状況が日常化しているのである。「暗い世の中」とは、こんな社会をいうのではないだろうか。
 マスコミは、すでに起きたことの善し悪しは論評しても、善し悪しの前にある根本の原因をいわない。根本の原因は、つねに人間の心の方にある。しかし、心のことは報じない。人としての行為が間違っていたように説いて、その理由は環境が悪かったからだという。
 ふつう、我々の行為が間違うのは、心の在りようが悪くて考えが至らないからである。だがマスコミは、心の在りようをいえば人権を犯すように思っている。それで環境を悪くしているのは、すべて政策や政治家の所為にしてお茶を濁す。環境が悪くても正しく生きる者はたくさんいるが、そのことはいわない。お陰で、聞かされる側も政府が悪いとばかり信じて、自分にも原因があることを思わない。
 日本国は一応、民主主義で治めることになっている。政治家は選挙で選ばれた者がなるから、今の自民党も国民が投票して多数決のうえで認めたものである。それが第一党として政権を代表しているのは、多数の国民がそれを許しているからである。許さないときは、前の民主党のように一気に失脚させられる。だから政党の政策を悪く批判すれば、その政党を選んだ国民を悪く批判するのと同じことになる。しかしマスコミは、そのこともいわない。選んだ方も、選んだらもう責任は政治家の方に移ったように思って、マスコミと一緒になって政治家の悪口をいっている。
 ドイツの哲学者、ニーチェは「政治の悪口をいえば天に唾するようなもので、やがて自分の顔に落ちてくる」といった。他でもない、悪口をいっている政治を選んだのは、我々だからである。
 福沢諭吉はアメリカの「独立宣言」からとって、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(『学問のすゝめ』)と述べて、人権の尊さを訴えた。私はこの人権がよく分からない。人間はだれも平等に生きる権利が与えられてきたと思うのは、人間の勝手な思い込みで、天の与り知らぬことと思うからである。もし天与の人権なら、なぜ大震災が起こって何千人も死んだりするのだろうか。
 また動物のことが考えられていない。動物に人間と同じ生きる権利があるなどとは思ったことがない。それで今日も、レアだとかミディアムだとかいって、喜んでステーキを食べているのである。
 私は動物たちが、殺されることに深い恐怖心を抱いている姿を何度もみてきた。だから、できるだけ動物を殺さないで済む世の中になって欲しいと願っている。個人的には肉類を摂らないできたのも、そのことを思うからである。牛も豚も鳥も魚も殺さないように努めてきた者から、「戦争は反対」という言葉を聞きたいと思う。僧侶で肉類が大好きな者は多いが、彼らから「仏心」の尊さを聞きたいとは思わない。仏教で説くところの「仏心」は、動物植物にも及んでいると信じるからである。
 根本は、いつも心にある。武道の技をどんなに修練しても、「無敵の極地」を得た者には無用となる。技に対する前に、相手の無力な心に応じてゆく者だからである。このことは先にも詳しく述べた。
 そんな「無敵の極致」を得た者と同じように、人の真実安心するところに、我が安心をもって応じてゆく。この心を優先しないで、すでに起きたことの善し悪しばかり報じても、社会が良くなることはないと思う。どんなに人権や自由や平等を主張しても、いう者の心に憎しみや悪意があるなら、人権や自由や平等をいう裏で危険が隠されていることは、この頃の国際情勢をみれば知らされる。
 孟子は、「苟も恒心無ければ、放辟邪侈、為さざる無きのみ。罪に陥るに及んで、従いて之を刑するは、是れ民を罔するなり」(『孟子』梁恵王章句上)といった。もし真の安心がなければ、人はただ、我がまま、ひがみ、嘘、邪念、贅沢などし放題となって、どんな悪いこともやるだろう。それで罪を犯したといって刑を科すなら、民が網にかかるのを待っているようなものではないかと。
 人として正しい心の在り方は示さないで、ただ自由と平等と権利だけ教えるから、みな個々に好き勝手をしている。法律に触れさえしなければ許されると思っているのである。
 私も学生のころ、先輩が「悪いことをしてでも成功しなければ、意味がない」といった言葉を忘れない。また私がバスに乗ろうとして、列の一番後ろに立っていたら、ある学校の先生から「そんな心がけでは駄目だ。人を押しのけても前に出るようでなくてはならぬ」と教えられた。先輩も学校の先生を務めたあと、某市の教育委員長になった。
 まずは心の正しい在り方を教えて、どんな心であれば社会や人と上手につき合ってゆけるのかを示してもらいたいと思う。そのことは教えないで、悪事をなすと厳しく処罰するのは、ほんとうに、罪に陥るのをまって網を用意しているものであろう。
 もし日本を「暗い世の中」と思わないでいたいなら、世の悪事を報じることは後回しにしても、この心のことを先にせねばならぬと思う。この心とは「恒心」のことである。いつまでも変わらぬ真の心のことである。
(後略)

 

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