記事(一部抜粋):2015年4月号掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

問題だらけの「ピケティ」

 トマ・ピケティの『資本』は、一方で「格差拡大にかんするその歴史的実証が資本主義批判を提示してくれているのみならず、現下の安倍政権におけるアベノミクスなる経済政策の否定にも繋がる」との理由で、朝日新聞系のメディアから大歓迎されている。他方、「高度累進所得税にかんする国際協定を、というその提案は国家を軽視するものとしてのグローバリズムの延長に立つ左翼的な空理空論だ」との強い非難をも招いている。どだい、巨大な格差社会になりつつあるアメリカで評判をとったから我が国でも「ピケティ現象を巻き起こそう」とするのは、いくら出版界が大不況の折とはいえ、商業が知識に優先するの構図であって、言論の筋道からずれた品位なき振る舞いというしかない。
 ピケティによれば、資本利潤率(r)は長期に及んで(おおよそ)5%くらいの安定値を保っている。それに比べて経済成長率(g)は1%程度のあたりをふらついている。それで資本分配率の上昇(つまり格差拡大)となるのはなぜかというと、資本(K)と国民所得(Y)との比率(K/Y)が不断に増大しているからだ。つまり資本分配率(rK/Y)の変化率はr/r+K/K−Y/Yなのだが、ここでr/rは(rが一定なので)ゼロであり、それはすなわち格差変化率はK/Y比の変化率に等しいということになる。
 またK(投資)はおおよそrK(利潤量)に等しいので、資本にとっての格差拡大率はr−gとなり、かくして「rvgならば格差拡大」というピケティの経験則が生まれる。
 ピケティは(少なくとも本書では)ほとんど説明していないが、K/Y比が上昇しつづけるとはどういうことか。それは、たぶん、「資本使用的な技術革新が立て続いた」ということであり、その逆をいうと労働への需要は歴史を通じて弱含みであり、その失業圧力のせいで、労働分配率が低下しつづけたのであろう。ここで私が強調しておきたいのは、イノヴェーションを礼讃してやまないのが昔も今も世間の風潮ではあるが、その背後には格差拡大という社会的な不安要因が休みなく醸成されていた、という事実についてである。
 さらに強調しておきたいのは、その休みなき技術革新の成果である新製品を消費者(つまり労働者)は喜んで購入したということについてである。つまり資本家悪玉論に飛びつく前に、新商品とあらば何にでも飛びつく社会風潮そのものが批判にさらされなければならないのではないか。累進所得税で格差を事後的に是正することも必要だが、家庭や地域社会を壊すような新商品群をも進んで受け入れてしまうような近代のマスソサイアティ(大衆社会)への批判の眼もなければならないのである。
 次に、利潤率はいったいどんな理由があって5%あたりで一定しているのか。ピケティには一言もないが、利潤率を一定に保とうとする価格政策や販売政策が(イノヴェーションに成功した)独占あるいは寡占の企業のがわにあったとしか思われない。また、この価格政策の面にかんしては、それが貨幣現象であるかぎりは、財務省や中央銀行の貨幣供給のやり方もまた批判の俎上に乗せられるべきで、ピケティのように「市場の歴史的実証」だけではすまされないのである。
 いわんや、資本使用的な技術革新のせいで生じる失業圧力のことについていえば、その余剰労働を公共活動へと引き込み、国家の公共的な基盤や骨格を堅固なものにするのは政府の仕事である。いや、民主政治にあっては、政府を動かすのは国民の世論だとされているからには、国民の公共的な関心と行動力がどんなものかが、とくに公共活動のための納税意欲の強弱が問われなければならない。そういう国家(国民とその政府)の全体にかんする歴史的考察を抜きにして「rvgならば格差拡大」を資本主義発展の「法則」のように語られても、エコノミー(経済)が「経世済民」の学であり、「オイコス(家)のノモス(規範)」であるとわきまえている者には、とうてい首肯できるものではないのである。
 ピケティ現象が広まったことそれ自体は、現代社会への不満の現れと解釈できるので、当然のことではある。私のいいたいのは、経済とて国家社会の一断面にすぎないと承知するなら、国家についての分析や解釈がなければ格差拡大の法則などを声高に喋ってはならないということにすぎない。
(後略)

 

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