記事(一部抜粋):2015年2月号掲載

連 載

【中華からの風に乗って】堂園徹

日中関係は中国の都合で変わる

 昭和30年代前半に生まれた筆者は映画やテレビをよく見る割には、俳優の名前をあまり憶えない。高倉健の名前と顔が一致したのは、かなり大人になってからである。
 それでも三船敏郎と石原裕次郎の名前は子供の頃から知っていた。学生時代には池袋にある文芸座という映画館に通い、そこで昭和20年代の三船主演の映画や昭和30年代の裕次郎の映画を見ていた。
 その文芸座で『君よ憤怒の河を渉れ』が上映されたことがある。しかし筆者は、そのタイトルの重々しさに何となく息苦しさを感じて映画館に入らなかった。その映画の主演が高倉健であることも知らなかった。だから、大陸の中国人が三船敏郎や石原裕次郎を知らないのに高倉健はよく知っているとい聞いて、少なからず驚いた。
 高倉健が亡くなったというニュースは、中国のテレビや新聞で大きく報道された。中国政府の報道官が「中国人もよく知っている日本の芸術家。中日の文化交流に重要な貢献をした」とコメントしていたほどだ。
 訃報を伝える記事は、見出しに「さよなら杜丘」とつけているものが多かった。杜丘とは『君よ憤怒の河を渉れ』の中で高倉健が演じた主人公・杜丘冬人のことである。中国人のなかには高倉健の名前は思い出せなくても杜丘といえばすぐ分かる人がたくさんいる。日本人が、渥美清の名前は知らなくても寅さんこと車虎次郎なら知っているのと似ている。しかし渥美清=寅さんになったのは『男はつらいよ』が48本も続いたシリーズ映画だったからだ。たった1本の映画で高倉健=杜丘になったということは、『追補』が中国人に与えたインパクトがいかに大きかったかを物語っている。
 日本ではあまり評判にならなかったB級映画が、中国で人口に膾炙することになったのは、中国の特殊な時代背景による。
 社会を未曾有の大混乱に陥れた文革(文化大革命)は1976年に終了し、78年になると改革開放政策が始まった。その78年に、『追捕』というタイトルで中国で上映されたのが、日本で76年に公開されていた『君よ憤怒の〜』であり、『追補』は文革終了後に中国で上映された最初の外国映画となった。
 文革の重苦しい時代を過ごした中国人にとって、政治色のない日本映画は新鮮だった。東京地検の検事・杜丘が事実無根の罪を着せられ公権力と闘うというストリーも、文革で迫害を受けて苦しんだ中国人たちの共感を呼んだ。高倉健が醸しだす男らしさも、多くの中国人を魅了した。
 それまでの中国人のなかにある日本人のイメージは、抗日戦争映画に出てくる悪逆非道な日本軍人だった。生まれてこのかた日本人を見たこともない中国人が、軍人以外の、しかも悪人ではない日本人をスクリーンで見たのは、おそらくこの時が初めてだったろう。
 そして、映画のなかのビルが立ち並んで車が溢れている東京の風景は、中国人に大きな衝撃を与えた。市場経済を提唱した鄧小平は「四つの近代化」を掲げたが、近代に触れたことのない中国人は、近代化が具体的にはどのようなものなのか理解できていなかった。映画のなかで近代化された日本を見て、それが近代化であることを知ったのである。
 80年代前半まで、中国では映画が唯一の娯楽だった。『追捕』は78年から数年間、中国全土の映画館で繰り返し上映され、高倉健=杜丘となった。
 この当時、日本と中国の関係は非常に良好だった。現在、日中関係が険悪なことから、『追捕』や高倉健のような作品や俳優が再び現れ、日中関係が改善することを期待する声がある。しかし、『追捕』は日中友好のためにつくられた作品ではない。中国側に特殊な社会環境があったがゆえに、日本のB級作品が、高倉健の持つ魅力と相まって中国映画史に残る空前のヒット作になったのである。
 当時の日中友好は中国の利と重なっていた。文革の後遺症から立ち直り、人民の生活を豊かにするためには経済発展が必須と考えた中国は、「侵略は一部の軍人がしたこと。これからは仲良くしましょう」と経済大国の日本に援助を求めた。日中友好は、あくまで援助を引き出すためのものだった。
 しかし現在、日本を凌駕する経済大国となった中国は、日本に媚びる必要がなくなった。むしろ、足元で少しずつ揺らぎ始めている共産党支配を正当化するための手段としては、友好よりも反日の方が国民をひとつにまとめやすい。援助が必要な時は友好だったが、現在は反日のほうが共産党政権にとって都合がいい。このように、日中関係は、中国側の事情によって変わるのである。
 日本でも公開された中国映画『芙蓉鎮』で主演女優を務めた劉暁慶が2002年ころ、テレビのインタビューで、次のような高倉健とのエピソードを語っていた。
 80年代前半に北京でおこなわれた映画のイベントに日本から高倉健が参加した。当時はクルマを持っている中国人はほとんどおらず、流しのタクシーも走っていなかった。劉暁慶がクルマのないことに気づいた高倉健は、自分のために用意されたクルマに劉暁慶を乗せ、彼女を家まで送った。その時、劉暁慶は、中国の俳優が貧しいこと、クルマがないことを恥ずかしく思った──。
 その日から約20年経って劉暁慶はこのエピソードを語ったわけだが、この時、劉暁慶は高倉健よりもずっと金持ちになっていたはずである。なぜなら、それからしばらくて劉暁慶は巨額の脱税容疑で逮捕されたからである。
 劉暁慶はまさに中国の劇的変化を象徴している。女優なのに昔は外国から来たゲストにクルマで送ってもらうほど貧しかった。しかし、いまは世界に数台しかないような超高級車を乗り回している。
 いま日中関係が悪いのは、中国が劇的変化を遂げたからである。超高級車を乗り回すようになった中国人が、日本人とかつてのような付き合い方をしないのは当然だろう。そのことを日本人は認識しなければならない。

 

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