記事(一部抜粋):2015年1月号掲載

連 載

【「無心」という生き方】形山睡峰

相ぬけの道

 相手の好むところが、相手の「無力」なところといったが、このことは自分にとってもそうである。自分の好むところが、また相手にとっては己の「無力」なところとなる。だから、互いの好むところに同事してゆけば、つまり、自他の好むところを一つにしてゆけば、いかなる状況にあっても通じないということがない。己の好むところは、無理をして為そうとするはからいがないから、余分な力を入れずとも自から行われてゆくのである。
 これを武道では「相ぬけ」という。江戸時代に無住心剣流という剣の流派を開いた、針谷夕雲(1592~1662)のことばである。己の「無力」のところをもって他の「無力」のところに対してゆけば、争う必要がなくなってくる。その境地をいった。つねに争いが生ずるのは、互いに「有力」の心で対応するからである。「有力」の心は、相手の好むところは無視して、己の好むところだけを相手に押しつけようとする心である。お互いがそんな風では、自分がどんなに正しいことを為したつもりでも、通じるはずがない。
 夕雲は「相ぬけ」を発明した次第を、門弟の小出切一雲に、次のように語っている。
「どんなにすぐれた剣技を身につけたとしても、みなことごとく妄想で虚事の類だ。本来の天理のままに愛用してきたものではない。大半が争いを好む畜生の心を身につけただけのものだから、自分より劣った者には勝ち、優れた者には負ける。互いに同等の力量なら相打ちになる外はない。それでは、いっさいに埒のあかぬ不自由な有(捉われ)の心にすぎない。そう気づいてから、刻々に工夫修行して、畜生の心を離れ、為そうとする心を捨てて、本然の自性のままに愛用してきたところの勝利を自得せんと研究した。ある日、ついに大悟して、兵法を離れて勝つ道理を明らかにし、自然に安座して独立して生きる真妙の心を得た」(小出切一雲著『剣法夕雲先生相伝』)と。
 夕雲が説く「愛用してきたもの」とは、自分が本性から好んで用いてきた心をいう。この心で対するのでなくては、どんな行為もみな「畜生の心だ」といった。
 何度もいうが、己の好むところは、自分だけが好き勝手をする心ではない。自分だけの好き勝手な心は、「畜生の心」である。心から愛用してきた本然の心には、自分だけということがない。いつでも、どこでも、だれにあっても自在に通用する天性の心で、生まれながらの心だから、夕雲は「愛用してきたもの」といった。
 我々が日々に愛用してきた心は、また、他に喜ばれる心でもある。他に嫌われたいと思って生きる者はいない。人殺しや盗みをするような悪人でも、仲間同士では互いに悪行の優劣を自慢しあっている。悪人も、だれかに喜ばれたいのである。
 自分の為したことが人に喜ばれて、怒る人もいない。むしろ、誉められ認められると勇気がわいてくる。心が晴れやかになる。心は初めから、そのように与えられてきた。だから我々は日々、何としてか喜びの人生を得たいと願っている。
 明の洪自誠は、「暴風や豪雨の日には、鳥たちも怖れ憂えて悲しげである。天気晴れわたって光風さわやかな日には、草木も生き生きと喜んでいる。見よ、天地は一日として和気なくしては在らず、人は一日も喜びなくしてはおれぬ」(『菜根譚』)といった。
 この心、人間だけに与えられたのではない。鳥や草木にも具わってきたものである。花の美しく咲く景色に心奪われ、鳥が鳴く声に思わず心和ませるのは、我々が草花や鳥たちの喜びを感じるからである。赤子がにこやかに笑う顔を見て腹を立てる者はいない。日々に愛
 互いにこの心で出会ってゆくなら争わなくて済むのに、なぜそうならないのか。世の中はときに、争いで溢れているようにも見える。好きなことより嫌いなことの方が多くて、がまんして堪えてゆくものが人生と思う者もある。なぜ、だれもが、もっと楽しく生きられないのか。
 みな自分自身を知らないからである。己のほんとうに好きなことが何かを、知らないからである。己の好きでやっているように見えても、多くは人真似である。みんながやっているから、自分も一緒になってやっている。だから流行が過ぎると、また新たな真似ごとを探さねばならなくなる。人真似でも、それが自分の感性に合えば楽しいようにも思うが、合わなくなれば面白くない。そんなくり返しのなかで、やがて、自分が何で生きているのか分からなくなってしまうのである。
(後略)

 

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