この執筆中は衆院総選挙が闌酣といいたいところだが、実のところいっこうに盛り上がらぬ選挙で、その結末はおそらく「組織票」を有している政党が有利となるのであろう。しかし公明党や共産党とて大躍進となるほどの多くの票を持っていないので、自民党が少々当選者数を減らす、というより現状の維持ということで終わるのではないか。しかし政局の微細な動向などに関心を払っている場合ではない。問題は「アベノミクス」の命運や如何ん、ということなのである。
誰も指摘しないことだが、アベノミクスを日本の経済政策にかんする一つの呼称ととらえるのは、間違いである。というより、「ノミクス」は本来、国家の「在るべき姿」としての「秩序」のことを表す「ノモス」という言葉に由来しているのだ。だから、「戦後レジームからの脱却」という政治的かつ文化的な国家論のことを除いて、いわゆる「3本の矢」からなる安倍政権の経済政策のことだけをアベノミクスとみなすわけにはいかない。
戦後レジームとは何かとなると、日本国憲法によって規定されている、もしくは強く示唆されている平和主義と人権主義(およびそれと繋がる個人自由主義と社会民主主義の混淆)のことだとされる。それでよいのだが、日本国憲法の基本精神は(日本への降伏命令文書ともいうべき)ポツダム宣言に発している。つまり戦後レジームの本質は、一つに「戦前日本は悪の帝国である」ということであり、二つに「戦後はアメリカの提唱する(社会民主主義的な社会保障政策を伴う)自由民主主義を価値の基本とする」ということなのである。
構造改革推進論といいイノヴェーション礼讃論といいグローバリズム歓迎論といい、このアメリカニズムという名のウルトラモダニズムから、つまり自由・平等・友愛・理性の価値四幅対をひたすらに持ち上げる態度から発している。戦後の日本もまたその国家路線を走りつづけて、はや70年である。「戦後レジームからの脱却」を本気でいうのなら、それは「アメリカニズムからの脱却」ということにならざるをえない。そう構えていないかぎり、我が国は、軍事的のみならず政治・経済・社会・文化の全方面において、アメリカ主導の「ノミクス」(国家秩序観)から逃れられないのである。
しかし、アメリカン・ノミクスとは実に矛盾多き代物であって、それは国家を無秩序へと近づける「秩序否定の秩序肯定」という「メビウスの帯」(表を進むと裏に入り、裏を進むと表に出るというパラドックス)みたいなものなのだ。
たとえば「自由な取引のためには取引のための規則がなければならないのだが、自由な取引それ自体が規則をたえず破壊して、経済界を無秩序に陥らせていく」という顛末になる。また、たとえば「平等化は能力・努力にもとづく格差を前提にしてこそ意味ある施策なのだが、平等化はその当然の格差を破壊して画一化をもたらす」成り行きとなる。
そこで(理想主義ではなく現実主義に立脚して)「秩序と格差」の回復が図られるわけだが、しかしそれはえてして「抑圧と差別」を帰結し、かつて理想であった「自由と平等」から遠く離れた事態へと逆転していく。そこであわてて「自由と平等」の理想が再び叫ばれるわけだが、自由と秩序そして平等と格差それぞれのあいだの平衡点が示されていないからには、国家は理想主義と現実主義のあいだの往復運動を永劫に繰り返すしかなくなるのである。
「理想と現実のあいだの平衡」、それはそれぞれの国家の「歴史の流れ」から、その流れの示す「慣習と体系」から、そしてその体系に含まれる「伝統の精神」からしかやってこない。アメリカニズムは、歴史感覚が乏しいアメリカであることからして当然のことだが、歴史・慣習・伝統を軽んじている。そのせいで平衡のとれた(換言すると節度ある)文化を創り出すことができない。安倍政権のいう「戦後レジームからの脱却」に意味があるとしたら、たとえアメリカや中国から歴史修正主義と罵られようとも、それこそ真っ当な「歴史認識」に立って、「日本帝国はロウグ(ならず者)であった」という歴史観を払拭しなければならないのだ。
(後略)