記事(一部抜粋):2014年10月号掲載

連 載

己の正しさを言えば、他は皆な悪に

【「無心」という生き方】形山睡峰(無相庵・菩提禅堂々主)

 時には、敵がかえって己の善き者になる。敵のお陰で、己の誤りが正されることがあるからだ。
 二十代の頃、私は傲慢で、己の正しさばかりを言い募っていた。どんな人の考えにも意見せずには済まなかった。何かと反論しては、己の考えが通ることに得意になっていた。むろん、人が私の考えを正しいと認めたから通ったのではない。あまりの屁理屈に閉口して、黙るほかなかったのである。それを勘違いして、私は人に正しさを教えてやったように思い、喜んでいた。
 他人の考えは聞かないくせに、自分の考えは認めさせようというのだから、これほど嫌な性格はない。陰口される一番の者だったが、本人は少しも気づかないでいた。
 ある日、倉庫の中で物を探していた。すると、そこへ同僚の一人が入ってきてパタンと戸を閉めると、槍のようなものを突きつけてきた。魚を突く道具だったが、それを私の胸に押しつけて、「俺と勝負しろ」というのだ。
 口の達者な私だったから、その場は何とかとりつくろって逃れることができたが、すっかり落ち込んだ。正しいことを示してやっている私が、なぜこんな風に怨まれるのか。そう思うと、生きる気力も失われた。
 それでも、あれこれと思い悩むうちに気づかされることがあった。
 己の正しさを言えば、相手は間違った者になる。私に反論された方は、その場で不正な者と決めつけられたことになる。私だって他人から否定されれば、「お前はダメだ」と言われたように思って、気分を害す。相手も大いに気分を害していたのだ。
 孔子の言葉に、「己の欲せざることを人に施すことなかれ。邦に在っても怨みなく、家に在っても怨みなし」(『論語』顔淵篇)とある。
 私はまさに、己がされて嫌なことを人に施して得意になっていたのだから、怨まれて当然だった。実に愚か者だったと思う。その後、私は長く、その同僚のことが嫌いになったが、その嫌いな者のお陰で、己の愚かさを知らされた。このことは僥倖だったと、今は思う。
 私ほど愚かでなくとも、似たような経験は誰にもあるのではないかと思う。大きな失敗をしたことで、かえって成功のきっかけを見出した者もあるだろう。多くの成功者は、たいてい、ひどい失敗を通して成功の鍵を拾ってきた者だと思う。
 病気をして始めて、健康の有難さが知れる。死ぬような病から生還して、急に生きることの尊さに気づく人もある。病気は我が身の敵だが、敵のお陰で生きることの真意が実感される。
(中略)
 敵は相手にあるのではなく、我が心の内なる感情のなかにある。だから、生きている限り、周りは敵だらけである。
 商売する人には商売がたきがある。会社員の同僚は我が出世を邪魔する敵である。恋人には恋敵があり、友人知人も自分の陰口をたたいていることが分れば、とたんに敵となる。著名な作家や評論家が、自分より売れる者が出てくると悪口をいうのは、一般である。大学教授は、仲間の学問的業績をすなおに喜べない者が多い。彼らの嫉妬心には常識をこえた激しさがある。坊さん同士が集まると、その場にいない僧の悪口を言いあっている。自分ではない者が、世間から認められることが許せない。内心では敵と思っているのである。
 オリンピック選手にとって、他国の選手は皆、敵である。国の威信をかけて戦うのだから、なかなか仲良くスポーツをというわけにはゆかない。韓国人が日本選手だけではなく、他国の選手にもひどい暴言を吐くのは、民族の敵と思うからである。
 我々の内なる心の敵感情を除かなければ、どんなに平和を叫んでも実現は難しいのではないかと思う。
 では、どうやって除くのか。鉄舟は敵と戦う技術を工夫するなかから、戦う必要のない「無敵の極所」を発明した。相手を敵と思う、その我が心に勝つ道を見出したからである。
(後略)

 

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