記事(一部抜粋):2014年10月号掲載

連 載

脱戦後は、脱近代のゆえに不可能

【流言流行への一撃】西部邁

 安倍政権への評定を下さなければならない段階がやってきたようだ。というのも、その内外政策の輪郭がおおよそ判然としてきたからである。その輪郭とは、「アメリカとの政治的・軍事的な連携」を強めつつ、「グローバリズム(世界画一主義)としてのアメリカニズムの路線」に沿う方向での軌道を敷設しつつも、アジアにおいて覇権を強めつつある中国にたいして対抗しうるだだけの水準に日本国家の国力を引き上げよう、ということだといってさしつかえあるまい。
 その成果は、一度死に体になってから蘇生した者は失うべき何ものも持たないという精神の強さを持っているおかげか、着実に上がっているとみてよいのであろう。円安(およびインフレ)誘導の金融政策も、規制緩和(およびイノヴェーション活性化)の制度設計も、日米同盟強化(および対中包囲網形成の外交展開)も、破綻少なく進んでいる。少なくとも、民主党前政権の無為無策と比べれば、安倍政権の立案力と実行力には眼を見張るべきものがあるというほかない。
 だが、安倍政権の示す業績に拍手する者はそう多くはない。それは、日本の「戦後」の本質をなすアメリカニズムにぴったりと寄り添っておきながら「脱戦後」をも標榜する、という歴然たる矛盾のなかに安倍政権が落ち込んでいるからだ。
 結局、安倍首相たちのいう「戦後」というのは、内政にあっては人道主義的な福祉政策を重んじ、外交にあっては軽武装の平和主義に徹しようとする、いわゆる(ソフト・ソーシャリズム系の)「軟らかい左翼」ということだったのであろう。たしかに、「戦後」という時代特性をそのように規定してみれば、軟らかい左翼としての「さよく」は民主党をはじめとして今や息も絶えだえであり、「安倍の勝利」に疑いをはさむ余地はない。
 とはいえ、政治思潮としての左翼が、元来なにを意味していたかというと、フランス革命時のジャコバン主義に由来する「自由・平等・友愛・合理」の価値カルテットを高々と掲げるモダニズム(近代主義)のことにほかならない。より正確にいうと、そうした価値における単純なモデル(模型)を大量のモード(流行)に乗せるのがモダニズムなのだ。そしてそのモダニズムこそが左翼の本質なのだから、アメリカにあって自由・平等・友愛・合理のほかには価値観がないのである以上、近代主義の別名はアメリカニズムであるというしかないのである。
 もう少し具体化していうと、「自由と合理」は経済における資本主義がみずからを正当化するための錦の御旗となった。そして「平等と友愛」は政治における民主主義が自身を礼讃するための合い言葉となった。誰しもが覚えているように、アメリカが二十世紀後半の世界に覇を唱えることができたのは、その資本主義と民主主義とにおける圧倒的な成果のおかげなのであった。アメリカに大敗戦を喫した日本は、戦後、そのアメリカの成果のおこぼれにあずかることによって、復興し反映したといって過言ではない。
 このモダニズムとしてのアメリカニズムに、そしてアメリカニズムの内実としての資本主義と民主主義に反発したり抵抗したりするのは、安倍首相のいう「脱戦後」には入っていない。それどころか、完全なアメリカニズムのゴールへの最終コーナーを回ろうとしているのがアベノミクスなのであってみれば、今の日本国家は「戦後の完成」へとひた走っているといわなければならない。
(後略)

 

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