「行きはよいよい帰りはこわい こわいながらも通りゃんせ通りゃんせ」
これは日本人なら誰もが知っている童歌「通りゃんせ」の一節。このところ中国から撤退する日系企業が増えているが、中国では会社をつくるよりも閉めるほうがはるかに難しい。まさに「行きはよいよい帰りはこわい」である。
日本では、株式会社に出資した者はその出資した金額以上の責任を問われることはない。1000万円を出資して会社をつくり経営不振で閉鎖することになっても、1000万円が失われるだけだ。
中国では株式会社のことを有限公司と言う。出資者の責任が有限なのでそう言うのだが、日本の株式会社と同じで責任は出資額まで、と考えてはいけない。
中国では会社を設立する際に関係官庁の許可が必要である。そこまでは日本人にも理解できるが、理解できないのは、会社を閉鎖するのにも許可が要ることだ。
赤字が続き社員に給与を支給できなくなっても、許可がないと会社を閉めることができない。中国では官庁が認めてくれないと倒産できないのだ。
中国で会社を設立するには、業種によって審査する官庁の数は異なるが、労働局、税務署、工商局などだいたい7〜8カ所の異なる役所の許可がいる。会社を閉めるときも、設立したときに許可をもらったすべての官庁から、閉鎖の許可をもらわなければならない。
それぞれの官庁は、自分たちが管轄する範囲で、その会社が払うべきもの、たとえば過去に規則違反によって処分を受けた際に罰金をきちんと納めているかどうか、といったことを調査する。税金についても過去に遡って滞納がないか調べる。滞納があれば、それが支払われるまで閉鎖の許可を出さない。「赤字倒産なので会社に支払い能力はない」といった理屈は中国の官庁には通用しない。「ない袖は振れない」は日本の慣用句だが、それは中国の官庁にも中国人従業員にも通用しない。
会社を閉めるためには、全従業員に労働契約終了書に署名してもらい、それを労務局に出して許可してもらう必要がある。中国の労働法では、会社都合で労働契約を終了させる場合、会社は従業員に「経済補償金」を支給しなくてはならない。補償金の額は本人の平均月給に在籍した勤務年数を乗じて計算される。10年働いていれば10カ月分の平均月給が補償金としてもらえるわけだ。
平均月給は直近の12カ月間に支給された給与の平均で、残業手当なども含まれる。たくさん残業して上司より給与を多くもらっていたら、補償金も上司より高くなる。
経済補償金は法律で定められたものだが、中国人社員は規定通りの補償金額では労働契約終了に応じてくれない。だから多くの日系企業は規定の額に1カ月分上乗せして払っている。このプラス分も最初から1カ月と提示してしまうと、中国従業員はもっともらえると思って2カ月、3カ月と要求してくる。
経済補償金の額を決める元となる在職年数は、日中合弁会社では数え方が変わってくる。合弁会社には、合弁相手の中国の国有企業から転籍してきた社員が多くいる。彼らの在職年数は合弁会社に転籍した時点から数えるのではなく、元の国有企業に入社した時点から計算する。合弁会社に5年しか在籍していなくても前の国有企業で20年勤務していれば、25年勤務したものとして扱われる。
さらに、その社員が国有企業の前に人民解放軍で働いていたら、軍での勤務年数が加算される。なぜなら、人民解放軍から国有企業、合弁会社への移動は、本人の意思ではなく組織の指示でおこなわれたという建前になっているからだ。
国有企業ばかりか軍隊に在籍した分の補償金まで民間企業が負担するというのは、日本人にはなかなか理解できないだろう。しかし、それ以上に理解できないのが定年退職者の扱いである。
日本では社員が定年退職すれば勤務していた会社との関係は切れてなくなるが、中国では会社と定年退職者との関係はその退職者が死ぬまで続く。
たとえば、会社は定年退職者の高額医療保険料を死ぬまで払い続けなくてはならない。この保険は医療費が嵩んで高額になったときに適用されるもので、保険料は年間48元(約800円)。これを本人が死ぬまで会社は負担し続けなければならない。
わずか800円と侮ることなかれ。退職者は100歳を超えて生きるかもしれないし、その間に保険料が値上がりするかもしれない。しかも退職者は毎年増えていく。何十年か後には企業にとって莫大な負担になっている可能性がある。
中国の東北三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)は極寒の地で、住宅には必ず蒸気式の暖房設備が備わっている。政府系の暖房業者が全家屋に蒸気を供給しているが、賃貸住宅の場合は大家が暖房費を業者に払い、持ち家の人は自分で払う。そのため持ち家に住む社員に対しては会社が給与以外に別途、暖房費を支給することが法律で決められている。しかも、高額医療保険料と同様、会社は定年退職者が死ぬまでそれを払い続けなければならない。
こうした福利厚生の制度は、中国に国有企業しかなかった時にできたもので、定年退職者が死ぬまで会社が負担することにしたのは、国有企業は倒産しないという前提があったからだ。国有企業がなくなれば国が肩代わりすべきものだが、それを中国政府は民間企業に押しつけている。
在職者に対する経済補償金に加え、定年退職者に対する保険料や暖房費の補償といった問題も解決しないと、会社は合法的に閉鎖することができない。ある日系企業は中国法人を閉鎖するために数十億円を支払った。会社を閉鎖するために“追加投資”が必要というのだから、中国の有限公司は実は無限公司を意味していると理解しなければばらない。
やはり、中国は「行きはよいよい帰りは怖い」なのである。