記事(一部抜粋):2014年8月掲載

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【流言流行への一撃】西部邁

「平和憲法」は抹消済み

 新憲法の制定から67年経ってもまだ「平和憲法の制約」とやらについて論じなければならないというのだから、何と因業な国家か。いや、因業のような重いものは何ひとつ感じられぬ軽薄きわまる国家になってしまったものか、この戦後日本は。同じことだが、敗戦から69年経ってもまだ「戦後」だというのは、この列島の国家論がいささかの(進歩どころか)進化をみせていないことの証左ではないのか。
 憲法とは国民の根本規範のことである。したがって、自衛隊という「交戦することの可能な戦力」のすでに六十年余に及ぶ存在が日本国民の根本規範に合っているのなら、現憲法9条第2項における「非武装と不交戦」の規定は死文とみなされるしかない。逆に、もしこの規定を「九条の会」とやらがいっているように大事としたいのなら、自衛隊を廃止して、米軍基地にあるアメリカの戦力のことを除けば、この列島を軍事的な丸裸状態にする必要がある。しかし、「九条の会」代表格の大江健三郎ノーベル賞受賞者が安倍首相と同列の政治的代表者となったとは聞いていない。その他あれこれ、自衛隊が国家(国民とその政府)公認の組織であることに一点の疑いもなく、だから、「9条第2項すでに死せり」との死亡診断書が世論と国会とから公表されているとみなすしかない。
 そうみなせば、日本国憲法を「平和憲法」と呼び替える習わしは言葉づかいにおけるいかにもふしだらな習慣だとの病理診断書を書く必要にも迫られる。このふしだらさは「いわゆる左翼」に残っているだけではない。安倍首相すらが、国会答弁で、「平和憲法の制約があるので、集団的自衛権を行使する場合でも、自衛隊は戦場(の前線)には派兵されず、後方に派遣されて後方支援に徹する」との軍事(もしくは軍事めかした)方針を出している。
 9条第2項すでになしとせば、一体全体、この憲法のどこに(「国家間の武力衝突」を避けるという意味での)平和主義が規定されているというのか。ないものをあるといいつづけるのは、ふしだらな習慣を越えて、イリュージョン(幻覚)の領域に入る。いや、イリュージョンの語源的な意味は「からかう、バカにする」ということだから、平和憲法なる用語をつかっている連中は日本国家をバカにしてそうしているのかもしれない。
 平和主義を思わせる文言がほかにまったくないというのではない。前文第2項に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」とある。それは、なるほど、「憲法草案者のアメリカは公正と信義の国家なのだから、日本(というアメリカの保護領)を守ってくれるに違いなく、そのことを信頼していさえすれば、日本人は安全に生存することができる」という意味だと解される。字面を素直になぞれば、そういうことになる。
 しかし、属国根性あるいは負け犬根性を丸出しにしてそんな憲法解釈をふりかざすのは論外である。この憲法がアメリカの占領統治の根本規範だというのならそれでよいのだが、占領は1951年のサンフランシスコ講和ですでに終了している。曲がりなりにも独立国たらんとする国家が憲法の冒頭で、「われらはアメリカの属国民なり」と公言するというのは、愚者の所業でないとしたら、オフザケとしかいいようがない。
 この文言は、「日本が侵略に抗して敢然と戦っているのなら、それを応援しようとするという意味で、公正と信義に熱い友好国さらには同盟国もないわけではないだろうから、彼らを信頼して集団安全保障の締結や国際警察への参加のために良き外交を繰り広げましょう」というくらいの意味だととらえればよい。あの大敗戦の翌年に戦勝国アメリカと敗戦国日本の代表者がそう考えたというのではむろんない。しかし、戦後も69年経ったのだから、独立国として当然の方向で憲法条文を解釈する権利を行使するのは、それこそ「容認」されてよいことではないか。
(後略)

 

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