記事(一部抜粋):2014年7月号掲載

連 載

【「無心」という生き方】形山睡峰

心明らかなとき、しかと定めておく

 鉄舟の言葉は、真に無心を悟った体験から出たものである。無心ということが、我々を「まこと」にする一番の要と会得した者なら、誰でも、鉄舟の言い方の妙に驚いて嘆息させられるだろう。殊に、「箱の中にある品物を出すのに、まずその蓋を去って中の物を子細に取り出すようなものだ」との言いようは、秀逸である。
 無心は、思い計らう分別を去った心である。分別心が去れば、物に対して己という心がないままに向かってしまう。鏡に物が映るようにである。
 鏡に映そう映すまいの計らいはない。前に来たものをあるがままに映して、余すところがない。心もそれと同じで、「己が」という計らいがなければ誰でも、前に来た物をあるがままに受ける。物に対したとき、先に己が受けるのではなく、物の方が己に触れてくるから自ずと受けている。あたかも蓋が開かれて、中の物がすべて取り出されるように、受けた世界が、そのまま己の世界になって働き出してくる。そのときほど、我々に生きる実感が充実されることはない。「ああ、生きるとはこの事実に出会うためにあったのか」と、心底納得されるのである。「無心に生きる」とは、実に、この事実に通うことだった。
 しかし、鉄舟もこの事実に出会うまでは迷いの人であった。
 彼の剣道修行は激烈で、竹刀の先が道場の壁板に当たれば突き刺さり、踏み込めば足元の床板が破れる。剣を受けた相手の胴当ても割れるほどなので、皆から「ボロ鉄」といわれた。剛腕で強いこと限りなしと思われたのに、彼は納得できなかった。真実心の自在を得たものではないと、本心が知っていたからだ。
 その間の苦心と発明の経緯は、後に鉄舟自ら記しているので、ここに紹介したい。坐禅修行や剣道修行に志す者だけでなく、政治や経営にも通じる要諦が語られていると思うからである。
《私は九歳のときから剣法を学び、千葉周作や斉藤、桃井(当時の江戸で有名な三大道場だった)の道場で指導を受け、試合することも幾千万回、その数を知らないほどだった。そのようにして、刻苦精励することおよそ二十年。しかし、未だかって安心の境地に至ることがなかった。そこで、剣の道理を悟った明眼の師に出会いたいものと、四方に探し求めていた。なかなか会うことができなかったが、たまたま一刀流の達人で浅利又七郎義明という人のことを聞いた。伊藤一刀斎(一刀流の開祖)の伝統をつぐ、大変な達人だという。喜んで、早速出かけていって試合をお願いした。
 果たして、世上流行するところの剣法と大いに趣が異なった。外は柔らかにして内は剛い。精神を呼吸に凝らし、こちらが打とうとする前に察して勝気を得る。真に達人と言うべき人であった。それより、試合うたびに遠く及ばないことを知らされた。
 何と工夫しても浅利に勝つ方法がない。昼間は色んな人と試合をなし、夜は一人坐禅して、精しく呼吸を凝らして工夫した。しかし浅利に対することを想えば、彼はたちまち我が剣前に現れること、あたかも山のようで、真に当たるべからざる者となった。
 私の修行はこんな風で、その奥義に徹底しないのは、性来の愚鈍と誠心の足らない故に違いなかった。
 私はかって滴水禅師(京都・天龍寺住職)に参じて禅理を聞くことがあった。滴水がいうには、「貴方の現在は、眼鏡をかけて物を見ているようなものだ。本来の眼に一点の疾がなければ、どんなに明鏡の眼鏡であっても無用であるばかりか、用いればかえって正しく見えない。もしこんな邪魔な物を去ることができれば、たちまちお望みの境地に達するだろうし、いわんや一朝、空っぽになり切って道を悟るなら、殺活自在、神通無礙の境地に至ることだろう」と。
 私は初め、滴水から「無」一字を公案として与えられ、無に成り切ることを十年ほども工夫したが、なお釈然としない。そこで滴水は更に「両刃鋒を交えて避くるを須いず、好手は還って火裏の蓮に同じく、宛然として自ずから衝天の気有り。」という公案を与えて、この句を精しく工夫せよと促した》
 この句の意味は、「二人相対して刀を交えるときは、避けてはならぬ。危険を免れる一番の好手段は、かえって危険と一体になることにある。火中に咲くという蓮華は炎が盛んにしていよいよ鮮やかに花開く。それと同じ心で交えるなら、さながら天を突き破る気力が自ずから湧いてくる」というもので、禅の道理を説いた『洞上五位頌』の書に出る。
(後略)

 

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