(前略)
日本で議論が空転するのは、米国が要求したら前向きに検討するという内容であるにもかかわらず、「米国の要求」という言葉を死んでも使えないので、集団的自衛権の範囲を自分で定義しようとするからだ。石破幹事長は「地球の裏側に行くことはない」といい、安倍首相はフリップを使った説明で湾岸戦争やアフガニスタンについて「仮に要求されても、これは対象ではない」と言明している。しかし現実には、日本の生命線であるエネルギーの調達ルートが脅かされるということで、イラクでもアフガニスタンでも米国の後方支援のために自衛隊の派遣を決定している。つまり理屈は何とでもつくのである。
安倍首相はこうした行動を取れるようになることが日本が「普通の国」になることだ、と繰り返し述べている。つまり専守防衛や個別的自衛権では「萎縮した戦後の日本」のままであり、集団的自衛権によって普通の国に一歩近づく、と考えているらしい。分かりやすくいえば、普通の国とは敗戦下につくられた憲法に縛られない国、あるいは第2次大戦の戦勝国ということになろう。イラク戦争でブッシュのポチといわれた英国やオーストラリア、そしてEUに入ってから米国に急接近しているポーランドなどが参考になるだろう。ドイツも日本より先に普通の国になっており、アフガニスタンでは最大4500人を派兵して54人の死者を出した。これが米国に協力した場合の「代償(参考値)」ということになるだろう。
一方、日本の集団的自衛権に懸念を表している韓国は、すでにPKO法案を通し、ソマリア、アンゴラ、西サハラ、東ティモール、レバノン、ハイチ、アフガニスタンなどに支援部隊を派遣している。イラクには1万9000人を出し、アフガニスタンでは死者3名を出している。さらにベトナムでは、なんと5万人を派兵してその1割、4968人の死者を出している。朝鮮戦争で助けてくれたお礼、ベトナムの赤化防止、いろいろ事情はあったのだろうが、米国の要請に従うことがどういう結果をもたらすのかを知るには、抽象的な集団的自衛権の定義ゴッコから抜け出して、こうした過去の事例を研究することが大切だ。
(後略)