記事(一部抜粋):2014年5月号掲載

政 治

STAP細胞騒動、理研の論文撤回要請は恥の上塗り

【霞が関コンフィデンシャル】

(前略)
 STAP細胞騒動で一躍注目を集めることになった理研は、日本屈指の研究機関である。これまでも長岡半太郎、鈴木梅太郎、本多光太郎、寺田寅彦、仁科芳雄、朝永振一郎、湯川秀樹などの優れた研究者を輩出してきた。
 設立は1917年とその歴史も古い。御下賜金、政府からの補助金、民間からの寄付金で、財団法人理化学研究所として文京区駒込に設立された。1967年に本部を埼玉県和光市に移し、現在に至っている。
 戦前は、持ち株会社の手法を使って産業応用を推進。研究の商業化に成功して「理研コンツェルン」を形成した。収益を上げることで潤沢な研究資金を捻出し、若手研究者にも自由に研究させる。だから理研は「科学者たちの楽園」といわれた。
 戦後の一時期、株式会社となったこともあるが、1958年に特殊法人化され、2003年に独立行政法人になっている。
(中略)
 科学技術などの研究開発に対して、国はいったいどのような形で関与することが望ましいのか。
 研究資金には限りがあるので、一般論として「選択と集中」が大事だといわれる。
 これこれの研究にこれだけ予算をかければ、このくらいの成果が期待できる、というコストパフォーマンスが事前にわかっていれば、選択と集中は意味がある。しかし、こと研究開発において、事前にコストパフォーマンスを測ることなど不可能だ。
 一方で、研究を数多くやれば、そのうちのいくつかは成果が出てくるというのは確からしい。そうであれば、研究開発に資金を投じる際には、投資理論でいうところの「分散投資」が参考になるだろう。要するに、特定分野に「選択と集中」するのではなく、広く研究費を「バラまく」のだ。
 こうした方法は一見ムダなように思えるが、リスクも分散されるので、一定の成果は期待できる。そもそも研究とは、極論すれば多数のムダのうえにごく少数の成功例があるという性質のものである。
 選択と集中をせずに研究資金を使えば、その管理について事細かくいう必要がなくなる。
 たいていの研究者は、研究以外のことに時間を使うのはバカバカしいと考えている。一般社会の組織では当然とされているガバナンスや管理というものが苦手な人たちだ。逆にいうと、だからこそ研究ができる。苦手な管理業務などやらせて研究に支障がでたら元も子もない、と考えたほうがいい。ある程度のムダを承知のうえで、研究者の自由に任せたほうが、全体としての研究成果は向上するだろう。
 それでもなお、選択と集中をしたいというなら、研究費を寄付する際の税額控除を認め、寄付者に選択と集中をさせるというのも一案である。
 官僚、とりわけ研究開発に疎い官僚に研究予算の選択と集中を任せるのは、どだい無理な話だ。研究するのは「研究者」という個人であって、「研究所」という組織ではない。特定の研究所を「選択」してそこに予算を「集中」させる方法がうまくいくとは思えない。
 それよりも研究者単位または研究グループ単位でプロジェクトごとに研究予算をバラマくほうがいい。研究予算の配分に組織を必要以上に介在させると、組織の論理が働き、個人の有能な才能を生かせない。組織管理が幅をきかせ、結果を早く求めがちになるので、自由な個人の研究の障害になる。研究はすぐには成果が出るものではなく、さらにその真偽の判定にも時間がかかるという点に留意すべきだ。
 民主党の事業仕分けでは、ある研究者がアシスタントに自分の配偶者を雇用したことを問題視していたが、そんなつまらない揚げ足取りをしてはならない。今回の騒動では、その研究者が疑惑解明に大きく貢献している。
 理研が調査報告書を出し、論文撤回を勧告するというのは、そもそもが学問の流儀に反している。論文を撤回するかしないかは、小保方氏らの研究グループと雑誌『ネイチャー』の問題で、組織は不関与が原則だ。ただし今回のケースでは、理研が当初は大々的に宣伝をしていた。しかも、研究内容の秘密保護にも腐心していた。そうした経緯があったので、事態収拾に理研が乗り出さざるを得なかったのだろう。
 一般論として、研究は自由闊達におこなわれないといいものは出てこない。極論すれば99の失敗があっても、1本のホームランがあればいい。たった一つの杜撰な例だけで、組織管理が問題だと批判するのは、研究をしたことも論文を書いたこともないサラリーマン管理職の戯言だ。
(後略)

 

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