記事(一部抜粋):2014年3月号掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

脱原発に疑義あり

 東北大地震および福島原発溶融から3年が経った。この間に、日本の経済・社会・文化の全般に及んで焦眉の課題であるはずの原発問題について議論が深まった気配は微塵もない。それどころか、過ぐる都知事選において、「核のゴミの廃棄場がみつからぬ」という単一の理由だけで、脱原発を単一の争点として選挙に臨んだ元首相もいたぐらいである。この伝でいけば、二酸化炭素のことをはじめとして再生不可能な産業廃棄物が山ほどあるわけだから、いずれ「脱産業」の単一争点で国政選挙が行われる仕儀となるのではないか。
 いや、実際には、原発論議も碌にしないままに、イノヴェーションこそが日本経済の活路と叫び立てつつ、高度情報(および技術)社会の到来が言祝がれ、その路線をひた走るのが日本国家の未来に可能な唯一の道と喧伝されている。それ以外のビジネス論はどこにも見当たらない有様である。今の日本に最も重要な文化的テーマの一つは、技術論についての思想論を彫琢することだと思われる。
 産業から排出され廃棄されるゴミのことをデブリ(debris)という。そしてデブリにまつわる「文明の被害」は、自動車事故や食品公害や薬品被害のことをはじめとして、戦後の69年間をとっただけでも、この日本列島で百万の人命が損傷されている。心身に回復困難なダメージを受けて生きている者も含めれば、とくに情報社会の作り出す(自殺などの)精神障害のことを考慮に入れると、技術文明の繁栄のもたらしたいわば「文明の被害」は、我が国だけで数百万人、という数字になるのではないか。
 世界をみれば、アメリカの推進している軍産複合体による大量殺傷兵器の休みなき高度化という事実がそこに加わる。反米テロの殺傷行為のことを加えていうと、これまた数百万の戦争被害という数字がのぼってくるであろう。要するに、世界における「文明の被害」は、第二次大戦後でみて、億の単位に達するのではないかと思われる。
 「文明の被害」は、個人的にみれば、自動車を運転しないとか自動車道には近づかないというような行動をとることにより、回避可能とみなされるかもしれない。しかしそれは、いかにも反社会的な見解である。自動車事故がコンスタントな数字を計上することからも察せられるように、「制度的被害」として生じるものであり、個人の努力でどうにかなるというような生易しいものではないのである。
 放射能特殊論、つまり「放射線は不可視であり、胎児にまで遺伝的な悪影響を与える」のが(ほかの文明の被害と比べて)特殊である、という意見を受け入れるわけにはいかない。眼にはっきりとみえぬ有害物質は放射線にかぎらないし、「自分の赤ん坊のことだけが心配だ」というのは女のエゴイズムにすぎない。現代人は、総体としてみれば、もし「産業の高度化と成長」という文明路線を肯定してかかるなら、「文明の被害」を甘受するほかないのである。
 インダストリアル・デブリの総体に無関心なままにニュークリア・デブリのことのみについて騒ぎ立てるのは言語道断である。一例として二酸化炭素のことを取り上げてみよう。仮に京都議定書が息を吹き返したとしても、それは「フロー(排出量)の減少」のことにすぎず、「二酸化炭素のストック(累積量)の増大」は避けられない。二酸化炭素のストックによる地球温暖化という仮説が妥当だとしての話だが、二酸化炭素というゴミの廃棄場はみつからず、それゆえ地球の自然環境の劣化は文明の避けざる道とみなすほかない。
 放射能のことに話を限定してみても、放射線被害についての誇大宣伝が行われていることを見逃すわけにはいかない。人命に損傷を与えるのは放射能そのものではなく、いわゆる放射線率つまり「単位時間における放射線被曝の量」である。福島原発の事故にかんしてシーベルトだベクレルだといった科学用語が飛び交ったが、放射線率で測ったとき、それは人間に健康被害を及ぼすものではなかった。少なくとも国連の放射線影響科学委員会が「福島には、今後とも健康被害は生じない」と予測している。そのことについての(論議どころか)報道が一切なされなかったところをみると、この列島は(広島・長崎以来)核への精神アレルギーにかかっていると断じてもさしつかえない。
 どだい、広島・長崎ではいわゆる「除染」が行われなかった。また、そこにおける死者はほとんどすべて(放射線ではなく)熱線による火傷によるものであった、ということすら見過ごしにされたままなのである。
(後略)

 

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