TPPや消費増税をめぐって、日本国家の羅針が大きく揺れている。しかし、羅針盤そのものは、明治維新この方、モダナイゼーション(近代化)の種類と程度を測る機械として、不変のままなのである。その維新から数えて約一世紀半、日本の近代化はそも何物であったのかと自省すべきとき、それが今なのだと思われる。そういう大きな視野を持たなければ、「戦後レジームからの脱却」を唱えながら戦後レジームの本質にほかならぬ「対米追随」の道をひた走る、という国民精神の罹病状態が今後とも続くに違いない。
〈諭吉と兆民のナショナリズム〉
明治の言論界をリードしたのは「自由主義者の福澤諭吉」と「民主主義者の中江兆民」だ、とみるのが定説となっている。両者ともに、明治維新期に西洋の文物と事象を見聞したとの理由から、日本近代化のイデオローグとすらみなされてきた。
しかし諭吉は、「我が国が西洋国たらんと欲するを憂える」といって、西洋への野放図な「開花流」を批判し、西洋の真似をする「改革者流」を嘲笑し、西洋のハイカラ趣味に惑溺するのを「心酔者流」と罵倒していた。諭吉が望んだのはあくまで「日本国民の文明」なのであった。文明とは「国民の気風」のことなりとするのが諭吉流なのであってみれば、「報国心」(愛国心)を抱くのは国民精神が健全であるための必須条件とみなされていた。
諭吉より11歳下の中江兆民もまた、ハイカラさんたちを「灰殻」と形容して疎んじていた。それどころか、民主主義の祖国とみなされているフランスを「自由と平等に狂える瘋癲病院」とすら呼んでいたのである。そして後年に及んでついに兆民は「露国撃つべし」とすら呼号したのである。思想的にいっても、最後の作品である『統一年有半』において、「意見の自由は良心によって制限さるべき」という見解を披瀝したのであった。
詳しいことは拙著『福澤諭吉』(中公文庫)と近著『中江兆民』(時事通信)をみていただくとして、私のいいたいのは次のことだ。諭吉と兆民は、みずからナツィオ(生誕の地)あるいはパトリ(父祖の地)に報いようとしていたという意味で、ナショナリスト(国民主義者)でありパトリオット(愛国者)なのであった。
たとえば「自由」の観念についていうと、「言路を塞ぐべからず」とあれだけ強く要求していた諭吉ではあるが、「自由は不自由の際において生ず」ということによって、「専制にたいする抵抗」のみが意味ある自由だとしていたのである。またたとえば「民主」の概念についていうと、「東洋のルソー」と称されていた兆民は、「君民共治」をいうことによって、「天皇への崇敬」と民衆政治とは矛盾しないと明言していた。要するに、両者の亡くなった1901年からずっと、諭吉も兆民も日本国民から誤解されたままだということである。
いや、その誤解が拭い難く定着してしまったのは、戦後においてである。すべてがアメリカン・フリーダムとアメリカン・デモクラシーの色眼鏡でみられるようになったこの68年間、我々は近代日本の思想的な先達である諭吉と兆民の正像をすら見失ったのだ。そうした視界喪失、方向喪失、価値喪失を率先したのは誰か。いうまでもなく戦後知識人である。
断っておくが、そうした思想喪失は「いわゆる左翼」においてのみ生じているのではない。「いわゆる反左翼」の知識人もまた、アメリカ文明は近代「主義」の権化であるという思想の焦点を見据えていないので、諭吉を近代自由主義の父とみなし兆民を近代民主主義の母と名づけたままでいるのである。
これは小生の解釈なのではない。前掲の拙著を(読まずとも)眺めて下さるだけで一目瞭然なのは、2人がナショナリストであり、パトリオットであることの証拠を山ほど残しているということだ。「心ここにあらざれば見れども見えず聞けども聞こえず」の典型、それがこれまでの諭吉論であり兆民論であるといわざるをえない。そういう莫迦者たちの末裔であればこそ、我々は「戦後レジームを脱却するために戦後レジームにすがりつく」という愚行に走るのである。TPP論議にも消費増税論議にも虚しさがつきまとうのは、ほかでもない、それを論議している者たちの意識にあって、日本の「国民とその政府」という基盤がメルトダウンしているからなのだ。
〈諭吉と兆民における武士道の残影〉
諭吉は国民文明の根底に「通義」をおいた。通義とは、日本の(時間軸における)歴史にあっても(空間軸における)社会にあっても、広く通用している道徳のことである。兆民は、その通義に啓蒙的な解説を施して、「正理」が国民文明の基軸だとした。兆民の場合、その正理を論じるに際して、けっして西洋哲学に淫することなく、というより西洋哲学への批判精神を保つべく、つねに漢学の視点を参照にしていたのである。
両名とも、日本における唯一の道徳的な規範ともいうべき武士道をあからさまに持ち出しはしなかった。それにとどまらず、諭吉は身分制度を「親の仇でござる」として疎んじていたし、兆民は江戸期に発達した「国学」を、精神面における「考古学」あるいは「単なる古典趣味」として軽んじていた。
しかし、彼らのいう「通義」や「正理」を、明治という状況に即して論じようとすると、否応もなく、「具体的な判断と決断」を下さなければならなかった。諭吉も兆民も在野の人であるということもあって、学説のなかに逃れるというようなことをせずに、そうした判断と決断を真っ正面から引き受けた。その引き受け方において、両名とも、半ば無自覚のうちに、武士道を表現していたとみることができる。
彼らはひそかにせよ武士道をつらぬいていた。陽明学的な言い方をすると、格物致知(現実に即して知識を得ること)を通して良知(適切な判断と決断)に至るというふうに、知行合一をめざしたのである。その人生を賭した言論への本気の取り組みにおいて、諭吉も兆民も(実際の出自としては足軽クラスとはいえ)「武士の子」であった。さらには「儒者の子」ですらあった、といってよいのである。
彼らは、さすが武士の子らしく、道徳を論じるのに宗教のことを表に出さなかった。宗教は諭吉にあっては「私徳」、兆民にあっては「私志」として、国家をめぐる公論には邪魔だとみなされていた。換言すると、メタフィジック(形而上学)に舞い上がるのでは、「通義」や「正理」を具体的に、つまり形而下の問題として論じることができなくなるということだ。そして話を形而下にとどめるかぎり、ナショナリズムやパトリオティズムがかならずや焦眉の課題として浮上してこざるをえないのである。
兆民は、「明治にたいして不満である」といい残した。その理由は「日本人が真面目に考えようとしない」ということにあった。真剣に思考するとはどういうことか、いろいろと議論はあろうものの、この平成期日本人が不真面目で無思慮であることは明らかだ。そんなことは、4年前に国民から80%の支持を受けていた民主党が今や国民から無視され足蹴にされている、といったような事態が世論・言論の全域を覆っていることからして自明といってよい。
TPPだ消費増税だと政策論に熱中する前に、「汝自らを知れ」とのデルフォイの神託に耳傾ける必要があるのではないか。