記事(一部抜粋):2013年11月号掲載

経 済

みずほ銀行、知られざる「呪縛」の源流

銀行の「陰のドン」といわれた男たち

 暴力団員らへの融資があるのを知りながら放置し、金融庁に虚偽の説明をしていたことが発覚した「みずほ銀行」。問題の融資はオリエントコーポレーション(オリコ)との「提携ローン」だが、すでに報じられているとおり、オリコは、みずほの前身の一角、旧第一勧業銀行と長年、密接な関係にあった。そのため一部では「旧第一勧銀の呪縛はいまだ解かれていなかった」と揶揄する声があがっている。
 「呪縛」とは、遡ること16年前の1997年、旧第一勧銀が引き起こした総会屋・小池隆一への利益供与事件の際、当時の同行トップが思わず口にした言葉。戦後の大物フィクサー・児玉誉士夫に連なる木島力也、木島の流れを汲む小池との断ち切れない関係を「呪縛」と表現したのである。
 しかし、木島や小池との関係は、実は旧第一勧銀の呪縛のほんの一部にすぎなかった。みずほ銀行の行員たちも知らない、旧第一勧銀の呪縛の源流をここで明かそう。
 その男は「湯島の旦那」と呼ばれていた。1908年生まれの申年。東京・湯島天神の氏子代表を務めるかたわら、中川ペイントという会社を経営していた中川宏。この男こそ旧第一勧銀の「元祖・呪縛」である。
 中川が旧第一勧銀のそのまた前身である第一銀行と関わりを持ったのは、1950年。第一銀行の上野支店が設立されたのがきっかけだ。中川は地元の顔役として同支店をサポートし、やがて支店長、さらにはその上の常務などと親しく付き合う関係になる。
 中川はその後も、第一銀行上層部とも親交を深め、とりわけ、66年に頭取に就任した長谷川重三郎と昵懇の関係になる。
 長谷川は第一銀行の創業者・渋沢栄一の実子(13番目の子なので重三郎と名づけられたといわれる)。行内では絶大な影響力を誇っていた。中川はその長谷川と年齢が一緒だった。
 当時を知る旧第一勧銀関係者によれば、中川は連日、長谷川と取り巻きの役員らを神楽坂などのお座敷に連れ出しては遊ばせたという。
 「申年生まれの長谷川氏と中川氏、さらに彼らより1つ年長で羊年生まれの取り巻き役員2人で、羊申会という親睦会をつくっていましたが、銀行の口さがない連中は、彼らのことを無能力四重奏団と呼んでいた。それほど夜の会合が頻繁だったということです」(同)
 連日のお座敷遊びで銀行上層部を篭絡した中川は、「長谷川頭取と直に話ができる有力取引先」として、銀行人事にまで口を出すほどの影響力を持つようになる。その力の源泉は「連日の会合で得た銀行上層部の身上に関する情報だった」(同)という。
 長谷川はその後、三菱銀行との合併を画策、実現寸前まで漕ぎ着けるが、「三菱に飲み込まれる」と危惧した当時会長・井上馨らの強硬な反対にあい、合併構想は白紙になる。
 求心力を失った長谷川は69年に失脚して相談役に退き、代わって会長の井上が頭取に復帰して実権を掌握。井上の主導により日本勧業銀行との合併が実現する。
 合併後は第一の井上が会長、勧銀の横田郁が頭取に就任し、二頭体制が成立。中川は、井上や横田とも親しく付き合い、銀行への影響力を維持した。
 合併8年後の1979年、旧第一勧銀で人事抗争が勃発する。同行の人事は第一(D)と勧銀(K)の完全なるたすき掛け人事で、DとKそれぞれが自派の人事を決めていた。このとき異変が起きたのはDの側だった。
 この年、村本周三頭取の後継候補(あくまでDサイドの)である篠木達夫副頭取と、藤森鉄雄専務の2人の役員定年が同時に到来(当時の内規では副頭取63歳、専務58歳)し、どちらを銀行に残すか決めなければならない事態となった。
 下馬評では、井上(この時点では名誉会長)の側近として三菱との合併話を潰した論功のある篠木が有利とみられていたが、大方の予想を覆し、専務の定年だけが1年延長され、藤森が銀行に残ることになった(藤森は後に会長に就任)。
 この人事抗争で篠木降ろしに動いたのが中川だった。
 「中川氏は、篠木氏が三菱との合併話を潰すのに走り回り、結果、長谷川頭取を失脚させたことが面白くなかった。篠木氏だけは許せないという思いがあり、井上名誉会長にかけあって篠木氏を切らせたのです。その際に中川氏がカードとして使ったのが、『身上に関する情報』だったといいます」(前出・旧第一勧銀関係者)
 なお、このとき定年延長で延命した藤森については、こんな話が伝わっているという。
 「藤森氏とライバル関係にあった役員(篠木ではない)から聞いた話なので割り引く必要があるが、その役員がいうには、藤森氏が中川氏に『自分が残れるようにしてほしい』と土下座をしている場面を目撃したそうです」(同)
 まるでドラマ『半沢直樹』を彷佛させるようなシーン。真偽のほどは定かでないが、第一勧銀における中川の影響力の大きさを示す逸話の1つではある。
 一般にはまったく無名の中川だったが、その存在が一度だけ、マスコミに取り上げられたことがある。『週刊読売』(1980年1月6日号)が報じた「合併10年目に噴き出した第一勧銀人事抗争」という記事がそれ。記事は《(篠木が)何よりもカチンときたのは、反篠木派が「中川某」と言われる有力取引先を使って篠木を辞任させるべく「工作」したことだったようだ……》と中川が人事抗争で暗躍したことをほのめかすとともに、銀行OBの談話を、次のように紹介している。
《……今はどうかわかりませんが、旧第一の秘書室では、長谷川さんや井上さんと直で話をされる方なので、中川さんが来るとピリピリしていたようです》
 さらに同誌は、《中川氏の会社の取引先は上野支店、個人取引は本郷支店で行っているが(注・本誌の得ている情報では逆)「中川係」の担当行員は、ちょっと、中川氏の機嫌をそこねると左遷させられたり、ノイローゼになってしまうほどだという》《その中川さんは、現在でも旧第一の役員人事に口を出し、井上名誉会長に、あれこれ進言しているという》と、中川の影響力の大きさにも言及している。
 週刊読売が指摘する《中川の機嫌を損ねると左遷させられた》ケースは、現実にあったようだ。その1つが本郷支店の支店長のケース。
 あるとき中川が同支店に融資を要請。その際、支店長が「形だけでいいので不動産を担保に入れてほしい」と要求したところ、中川は激怒、銀行との取引全面中止を通告したという。慌てた銀行側から担当役員(当時)の前出・藤森がかけつけて平身低頭して謝ったことから、中川は矛を収めたが、バンカーとして当然の要求をした支店長は、あわれ左遷の憂き目にあっている。
(後略)

 

※バックナンバーは1冊1,100円(税別)にてご注文承ります。 本サイトの他、オンライン書店Fujisan.co.jpからもご注文いただけます。
記事検索

【記事一覧へ】