連 載
一つ心の働き
【「無心」という生き方】形山睡峰(無相庵・菩提禅堂々主)
お寺の一番高いところに掲げられた旗が、風にひるがえっている。今日は、住職が一般在家の人々に説法する日で、そのことを知らせる合図として揚げられているのだ。旗を見た人たちが村や町から三々五々集まってきて、すでに多くの人で境内はにぎわっていた。
山の中腹を開いて建てられた寺は、広大な敷地の中に伽藍がいくつも並び、一つ一つの建物はどれも天を覆うばかりに巨大である。中央に位置する大本堂の前庭では、在家の人々に交じって修行中の僧たちが立ち働いていた。見れば、庭の一角に米を入れた袋や野菜類が山のように積まれている。在家の人々が謝礼として喜捨したもので、僧たちも皆、そんな人々への応接で忙しいのである。
参道の途中に、裏山に掲げた旗のよく見える場所があって、数人の僧が旗の方を見上げながら何やら議論している。
「風があるから旗が動くのだ。旗があるから風が動くのではないぞ」
「いや、いや、旗がなければ風のあることも証明されぬ。旗が動くから風があると知らされるのだ」
「なにを言うか。風があっての旗の動きではないか、旗は後だ。先に風があったから旗も動かされるのだ。そんな道理も分からんのか」
互いに言い争っているものだから、他の僧たちも集まってきて、だんだん大騒ぎになってきた。中には「旗が動くか風が動くかなど、どちらでも良いではないか。坊さんたちも暇なものだ」と興味本位で眺めている者もある。実は彼らからすれば、仏教の法理の要の問題を論じてあっているつもりだから、互いに引くに引けないのだった。
〈二つに分けて考える〉
一方の主張はこうである。いっさい衆生には皆な始めから仏性が具わっている。我々が道を誤るのはその事を忘れているからで、修行はその事実に気づくためのものだ。気づけばもう誰もが仏心の中に生きることができる。始めに風(仏の慈悲)があるから旗(衆生)も動くことができるのだと言うのである。
他方の主張は、我々はいつも目先の我欲に捉われて、迷い苦しみから逃れられない存在なのだ。厳しい修行を尽くして我(エゴ)を去り、汚れ(我欲)なき清浄な心になるのでなければ、どうして仏性を悟ることができようか。旗(我々)の方から風に向かうのでなければ、風(仏性)力を得ることはできないと言うのだ。
人間はどうも、こんな風に物事の道理を二つに分けて、善し悪しを言いあうことが好きなように見える。そして論争に勝った方は、あたかも天下の正論を勝ち取ったように思うのである。
私はここで、そのことばかり指摘してきたつもりだが、問題を善し悪しの二つに分けて論じても、ついに真実には至らないのである。善し悪しは単に個人的な価値観に限定されるものだからである。私に善いことが、あなたには悪いこともある。あなたに悪いことでも、私にとっては嬉しいこともある。
もし、皆に正しいことが私の正しいことで、皆に不正なことは私にも不正なことだと言う人があるなら、それは自分の心を一度もちゃんと省みたことがない人である。人間はときどき、全人類にとって絶対の正義があるように主張する者がある。現実には、そんなものはない。多数が正しいように言うと、考えもなく多数に同調しているだけである。
戦争は人類の絶対悪のようにいう者がある。それならどうして世界から戦争がなくならないのか。前にも述べたが、人類の長い歴史を見れば、戦争と戦争の間に少時の休息期間(平和)があるばかりである。これは結局、戦争することを正義のように思っている者が、今に至るも絶えない証拠である。
我々はいつも物事を二つに分けて、その善し悪しを比べて考えてしまう。自分のことでも、幸せと不幸せ、迷う心と迷わない心、愛する心と憎む心、他人に認められる己と認められない己というように、二つに分けて見る。そして、一方から他方の自分を思っては喜んだり悲しんだりしている。常に二つの思いの間で行ったり来たりしているから、そのことが、心を不安にさせている一番の原因になっているのだ。
人類の歴史に対しても、戦争と平和の二つに分けて見ては、互いに善し悪しを言いあってきた。それでいて、確かな解決を得たことはついにないのだ。ないから、いつまでも論争が絶えないでいる。もし論争を終わらせたいと願うなら、まずは、二つに分けて考えることから離れて見る。そのことから始めねばならないと思う。
〈心が動いている〉
さて、話は唐代の昔である。僧たちが旗を見ながらワイワイガヤガヤ、口角泡を飛ばしながら言いあっていると、そこへ一人の男がやってきて、彼らを指さして言った。
「風が動くのでもない。旗が動くのでもない。あなた方の心が動いているのだよ」
一瞬、この男なにを言うかと思った者たちも、言葉の意味を解したとたんに、
「お—っ!」
皆、絶句した。
「風が動く」「旗が動く」と、そんな風に言い争っているあなた方の心が、すでに動揺しているではないかと、そう聴いた者もあった。だが、男の言った意味はそうではなかった。風や旗が動くと見るのは、我々の心が動いているのだと言った。仏性が始めから具わっていると思うのも心である。迷った者でも仏心を悟ることができると思うのも心である。風が動くと見るのも心であり、旗が動くと見るのも心である。同じ一つ心の働きを、どんなに二つに分けて論じあっても、論じている心自体は一つ心の働きではないかと言ったのである。
相手の言い分を是非(肯定したり否定したり)するときは、己の心も是非の二つに分けているのだ。考えることは分別することで、物を二つに分けて比較することで生じてくる。分別させている心自体は、もともと我が一つ心の作用であった。
たとえば「赤」と言うときは、心に「赤」以外のすべての色が暗に前提とされる。「緑」と言うときも、「緑」以外の色が前にある。「男」と言うときは「女」が意識され、「善」と言うときは「悪」の思いが潜む。「平和」を主張する者には、必ず「戦争」のことが思われている。だから自分が「正しい」と言う者は、自分に反対する者は皆「間違っている」と思ってしまう。
人は誰も「お前が間違っている」と言う者を「正しい」とは思いたくないから、結局、いつまで経っても論争が絶えないできたのである。