記事(一部抜粋):2013年2月号掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部 邁

憲法、そんなものがあったのか

 新しい年がやってきたというのに、憲法という古い問題に眥を決している人々がいる。いわゆる反左翼の人々が、「自民と維新が結託して来るべき参院選に臨んで大勝すれば、憲法改正の念願が叶うのではないか」と勇んでいるのである。その気持ちは、重々、理解できる。日本国憲法が手枷足枷となって、日本国はかくも不甲斐なき状態に堕ちてしまったのだから、その枷が外されたら「日本人の底力」が存分に発揮される、という期待が高まるのも無理はない。
 しかし、憲法があったから自分らの力量発揮が抑えられていたと認めるのは、いささかならざず情け無い。憲法なんか、しょせん、商屋の鴨居に埃まみれになっている家訓のようなものだ。そこに書かれていることも、「一生懸命に働け」とか「借りたカネは返せ」といった類の凡庸なことにすぎない。そんな文章は、適宜に無視するなり、状況に応じて適当に解釈しておくのが大人というものだと思われる。ましてや外国人の書いた家訓にすぎないのだから、憲法の存在に気づかなくて、むしろ自然といってよい。
〈成文憲法はなくてよい〉
 護憲にせよ改憲にせよ、あるいは(一旦は廃棄した上での自主的な)新憲法制定にせよ、リトゥン(成文)憲法でいけというのは、国家の「在るべき」根本規範を明示せよということにほかならない。しかし忘れてならないのは、その「規範の明示」を制定者の「理想」から導くのか、それとも国民の共有する歴史的な「常識」を確認するにとどめるのか、という区別についてだ。近代において(英国を別として)成文憲法が採用されているのは、前者の理想主義的な流れにおいてである。つまり、自由主義や民主主義の理想を国家の長看板に掲げるという流れにおいて憲法が明示されている。
 しかし、もし国民の意識が成熟しているなら、理想と現実のあいだの平衡としての「道義」が、たとえば平等と格差のあいだの平衡としての公正が、国家の根本規範とされるであろう。そして道義は、それを具体的に適用しようとすると、現在只今の状況によって様々であるとわかるに違いない。また、その「状況における道義の具体化」のために議会における「討論と審決」があるのだ、というふうに国家全体の仕組みを受けとめるであろう。自分らの代表による議論が健全でありうると考える国民は、アンリトゥン(不文)憲法であってかまわないとすら考える。そう構えるのが成熟した国民なのだ。
 成文憲法は、特定の時期の特定の能力しか持たない特定の人物たちによって草案が書かれ、その是非が検討されてできたものである。しかし、時代は変わり、それにつれ人間の能力に関する評価も変わってくる。となると、成文憲法が後世の国民にとってむしろ桎梏となる、手枷足枷になる、という危険が増すのである。そのことに配慮すると、たとえ成文憲法を採用するとしても、その内容は(長期にわたって有効にするために)抽象的な表現にとどめざるをえない。あるいは(時代の変遷にうまく対応できるようにするため)フレキシブル(柔軟)に変更することのできるものにしておかなければならない。
 国民の感性と理性を支えるものとしてのコモンセンス(常識)が優先されるのであって、憲法の諸規定によって国民の常識に箍をはめてはならないのである。その箍が立派なものであるとみなすのはいわゆるコンストラクティヴィズム(設計主義)であって、それは憲法制定にかかわる政治家や知識人における「理性の傲慢」というものだ。逆に、彼らの言動に箍をはめるのが国民の常識だとしなければならない。
 といってはみるものの、モダン(近代)の時代にあっては、国民の思考と行動が単純なモデル(模型)にはまり、それがマス(大量、大衆)のモード(流行)となり、いわゆるポピュラリズム(人気主義)の政治が登場してくる。国民の常識が歴史的に熟成されたものではなく、メディオクラシー(情報媒体の支配)によって右往左往させられることになる。だから不文憲法でいけと大声で主張することはできない。また政治家や知識人とてマスの代理人にすぎなくなっているのであるから、彼らの作る成文憲法に大きな期待を寄せるわけにもいかない。要するに、
〈解釈憲法にも意義がある〉
 アメリカ製の現憲法では、とくにその第九条の第二項における「非武装と非交戦」の規定をめぐって、悪名高い解釈改憲がおこなわれてきた。つまり、「状況への適応」のために「恣意的な憲法解釈」をおこなってきたということである。それが戦後日本人の国家意識をどれだけ曖昧乱雑にしてきたか、今さら指摘するまでもない。その悪弊を断ち切るべく憲法を改正せよ、というのは当然の成り行きである。安倍新内閣がその方向に舵をとろうとしているのも高く評価することができる。
 しかし、一般論としては、成文憲法でいくかぎり、大事なのは国家の根本規範(憲法)にかんする解釈のほうなのである。というのも、チェンジング・ソサイアティ(変化する社会)にあっては、ルール(規則)もまた状況の変化に合わせて適宜に解釈され運用されるからだ。つまりその解釈の運用における説得力や決断力のパワー(力量)が不断に問われる、ということにならざるをえない。
 安定した社会ならば、ルールの具体的な内容がカスタム(慣習)によって、おおよそ不変のものとして特定されるであろう。しかし、イノヴェーション(革新)が文句なしに礼賛されている時代にあっては、慣習が絶えず激しく崩されていくので、ルールの内容も転変する。休みなくルールを改変していくことが必要となるわけだ。しかし、ルールの改変はつねに状況を後追いするにとどまる。そこで、ルールにたいする解釈・運用というパワーの問題が浮上するほかないのである。
 さらに、ルールによる抽象的な規定をステレオタイプ(紋切型)に解釈してパワーの作用する余地を狭くしようとする法治主義は、状況がめまぐるしく変化する場合には、「受け身の法匪」とでも呼ぶべき状況不適応に陥る。戦後日本は(国防をめぐる)その種の不適応のために、国際秩序の形成・維持に貢献できなかったばかりか、みずからの領土問題をすら解決できずにきた。
 法律の文言に杓子定規に従うのは、それ自体として、国家の秩序に無関心であることの現れなのである。大事なのは、国家秩序についての国民の真剣な関心と論議であり、そこから生まれてくる国民に共通の解釈のほうなのだ。その解釈が法律の条文と甚だしく食い違う場合には、条文のほうを死文とみなすほかない。実際、自衛隊という戦力を持つことによって、我が国民は憲法第九条第二項を反故にしてきたのではないか。それを認める精神の廉直がないものだから、自衛隊か国防軍かなどという低レベルの議論を、世界が危機に見舞われているさなかに、やらなければならないのだ。
 もちろん、その場かぎりの便宜主義的な解釈は避けなければならない。インタープリテーション(解釈)とはプレシャス(価値ある)事柄のなかにインター(入っていく)ということである。取り戻さるべきは「国家とその歴史があっての自分だ」という当たり前の価値観なのである。そういう自分たちが状況をどう解釈し、いかなる決断を下すか。それが問題なのだ。

 

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