埒が明いても明かなくとも、どうにもならない政局話は当分やめにしよう。それよりも、中国がやがて世界第1位の経済大国になり、その(年当たりの)軍事費もアメリカを抜いて世界のトップに立つ、ということのほうが大事だ。アメリカの「アジア・シフト」なるものも、自分の経済的苦境のゆえに綻びを露呈するに違いない。中国にあっても、経済成長の鈍化や社会格差の先鋭化によって、その覇権主義に翳りが差すのかもしれない。はっきりしているのは、アメリカも中国もみずからの覇権を維持・伸長させるために、またみずからの内部矛盾を外部に転化させるために、日本への圧力を強めてくるであろう、ということだ。
こうした国家の危機を展望して「日本危うし」と警告を発する者はたくさんいる。しかし、日米同盟論や日中友好論の底が割れているとなれば、旧態の外交論を延長させても致し方ない。それどころか、その延長線上をうろうろと彷徨っているのでは、米中両国の対日圧力を加速化させて御仕舞であろう。日本国家の「自主独立と自主防衛」を10年か15年かけて達成するという路線を進む以外には、危機乗り越えの展望がみえてこない。自主独立と自主防衛という最も簡明なはずの外交上の道筋がなぜしっかりと示されないのか。それは国民精神を変なイドラ(幻影)が覆っているからなのに相違ない。
核兵器は人類の作り出した凶器である。魔物というか悪魔というかはともかく、近代文明の絶頂において近代文明を滅亡させうる兵器が出現したのである。そこでアポリア(難問)が生じる。「核兵器が廃絶された瞬間が最も恐ろしい。なぜなら、核兵器の科学的知識そのものを消滅させることが不可能である以上、核兵器をひそかに製造した者が世界の(悪魔にもなぞらえられるべき)帝王となるから」である。
言い換えると、「核との共生」のほかに文明の進むべき道はないということだ。付言しておくと、核にかぎらず、自動車から薬品まで、文明のもたらした利便には多大の犠牲が伴うのであり、そして現代人はそうした技術主義的な文明を、その発展速度を遅らせることはできても廃絶することは不可能なのである。核兵器は、その存在がどんなに恐怖や不安の原因になろうとも、現代人が直視し、必要にして可能ならばその製造や保有に着手せざるをえない代物なのである。
NPT(核不拡散条約)は、元来、日本の核武装を阻止するために、アメリカが(ソ連や西欧を味方にしつつ)制定したものであった。アメリカの覇権主義に同調したり屈服したりする者は、日本のNPT脱退は、アメリカからの強烈な反発を招くとの理由からして、あってはならないとみなす。だが、アメリカの国内にあってすら、その覇権主義には未来がないとみる意見がたくさんある。イラクやアフガニスタンにおけるアメリカの軍事的な失敗がそのことをすでに予告している、といってもよい。
外交を論じるとき、「話し合いが大事」とバカの一つ覚えのようにいわれる。なるほど国際社会の秩序形成にあって意思疎通ほど大事なものはない。しかし、そうならば、日本が核武装する必要についてアメリカとの意思疎通を始めればよいではないか。そうしないかぎり中国の覇権主義に歯止めを利かすことができない、というのはアメリカを説得しうる論拠なのである。
日本政府が核武装の必要性を公言するのは国際社会の既存の秩序にたいする大きすぎる撹乱要因となるというのなら、議会がその論議を始めればよい。議員たちが腑抜けだというのなら、民間で核武装論を開始しなければならない。しかし、左翼人士はむろんのこと、反左翼人士とて、核武装については口を閉じている。「国防」という言葉がようやくにして人々の口の端に上るようになったとはいえ、自主防衛のためには避けて通れぬはずの核武装のことについてだけは、まるで箝口令が敷かれたように、沈黙が守られている。そんな国家はすでに滅びの過程に入っているのではないか。
政治やメディアが核武装のことを封印しているのには理由がある。それを主張する立候補者は選挙で落とされ、それを重視するメディアでは、販売量が減ったり広告料が集まらなかったりすると予想されるからなのだ。つまり、世論は核武装論を忌み嫌う、というのが定説のようなのである。「民の声は神の声」というのが民主主義であるからには、また民主主義がタブーとなってすでに久しい以上は、ニュークリア・フォビア(核恐怖)が、死の灰のように、この列島人に降り注いでやまないのである。
しかし、この核恐怖という猫に誰かが鈴をつけなければならない。そうするのには、まずもって、今の世論が度し難いまでの混濁や空疎をさらしていることを指摘する言論がなければならない。それをしないままで、「尖閣における中国の乱暴狼藉」や「TPPにおけるアメリカの得手勝手」をいくら指弾したとて、無駄弾を撃つようなものである。「ワイマールの堕落せる民主主義」を撃ってナチズムが頭角を現した1920年代、30年代と似たような段階に時代は入っている、とみなければならない。
「核への恐怖」が非常識だといっているのではない。「ナチズムへの嫌悪」が不穏当だといっているのでもない。それらを素朴心理において忌避するのが精神の健全さというものではある。しかし文明は、引き返しようもなく、そうした狂気に舞い堕落に沈んでいる。そこでなおかつ生き抜こうとする以上は、しかもそんな時代環境のなかに子孫を産み落としつづけているからには、時代の狂気や堕落をいかにくぐり抜けるか、という課題から逃れることができない。(後略)