現憲法にかかわって、ほとんど誰も指摘しない論点が2つある。1つは「この(憲法を支える)原理に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と前文に書かれていることであり、2つは「戦争放棄」が第2章(という憲法の冒頭部分)に記されていることである。両者を合わせれば、戦争放棄はこの憲法の根幹に位置するものではないのか、そうならばその第2項の規定である「核武装と交戦権否認」に反するような改憲は排除されるということである。
私のいいたいのは、この憲法の枠内にとどまるかぎり、そして自衛隊を(承認するのみならず)国防軍に昇格させようとする以上は、「改憲ではなく廃憲を」といわなければならず、そして「別の考え方に立脚して新憲法の制定を」と主張しなければならないということにすぎない。
前文第1項では国民主権と代議制とを「人類の普遍原理」と呼び、その第3項でも国際社会への配慮という「政治道徳の法則は普遍的なものである」と称している。
ユニヴァーサリズム(普遍主義)をよほどに深く奉じる占領軍人たちがいたということであろう。この普遍主義の憲法思想はどこからきたか。アメリカの独立宣言とフランスの人権宣言あたりからだといってさしつかえない。
独立宣言の前文で「自然の神の法」「天賦の権利」といったようなことが仰々しく謳われている。人権宣言の全文でも「譲渡不能にして神聖な自然権」が掲げられている。キリスト教を背景にして出てきたロー・オヴ・ネイチュア(自然法)の考え方について論議しない日本人の憲法論など子どものお喋りだといってよい。
ネイチュア(自然)は元々は「産まれる」という意味で、「血統」ということから始まっている。それは、ネーション(国民)と語源を同じくする言葉だ。しかし日本人の父祖の地はキリスト教はいうに及ばず、いかなる特定の宗教によっても染め上げられたり塗り固められたりしてはいない。そうならば、自然法についても別様の解釈が必要である。どだい、ネイチュア(誕生)にこだわる者はそう簡単に世界に普遍の法などを口にしないのである。
ナチュラルには「当然」という意味もあって、その日本語は、どちらかというと、「人間界の長き慣習によって正当とされている振る舞い」にたいして付される形容である。たとえば「国民の声を聞け」という主権在民の思想とて、日本の場合は、それこそ仁徳天皇の昔から、「民の竈から煙が立ち昇っているかどうか」ということへの配慮として、「当然」とされてきたものである。つまり、ネイチュアを神に繋げるなら自然法が、そしてそれを歴史に根づかせるなら当然法が、それぞれ出てくるということだ。
「国家」の憲法は後者の当然法として規定されるべきである。国家そのものが歴史のなかで徐々に形成されるものだからである。ネーション・ステート(国家)を「神の国」(アウグスティヌス)に帰属させるのは無理であり、この世俗化や多宗教並存の時代では有害ですらある。そして、国の歴史から憲法を導くものとしての当然法に立つならば、人類に普遍的な原理などを国家の表札にすることなどできはしない。
普遍主義に傾くアメリカが敗戦国日本に自分の原理を「押し付け」たのではない。アメリカとしては、自然法という神聖なものを日本に伝道しただけのことである。それを「有り難く頂戴」して、日本国の表玄関に飾ってきたのは日本人(の多数派)の意志なのだ。その意思が軽薄であり愚鈍であり臆病であり卑怯であったと自覚するなら、日本国憲法を総体として廃棄する以外にない。だから、「改憲ではなく廃憲」となる。(後略)