記事(一部抜粋):2012年3月掲載

連 載

【赤い健康食品】藤吉 孝二

ある健康食品の出自が語る忘れられた科学

 敗戦で崩壊した満州医科大学を離れた稗田憲太郎が、転戦する八路軍とともに華北を移動していたころ、日本では一風変わった医療が紹介されていた。
 それは人体の一部を皮下に埋め込む、「埋没療法」である。当時発行されていた雑誌、『科学と技術』の昭和23(1948)年12月1日号には、「盲も結核も治す冷凍の皮ふ」と題して9ページの特集記事が組まれている。その一部をここに引用しよう。
《ある女事務員は肺結核でもう五年もねていた。そのうえ病気は進み喀血し、その上喉頭結核にもなってをり、食慾はなく話もできず、ただ死をまつばかりであった。
 1937年11月、フィラートフは冷凍した皮ふを下あごにぬいあわせて植皮してみた。3日目診察したときには、食慾もでて、話もできるようになつていた。それから1ケ月毎に2回植皮し、翌年の4月にもう一度、5月にもう一度やってみた。やるたびによくなって、その後患者はすっかりなおつていそいそと退院していつた》
 文中に登場するフィラートフは、角膜移植の先駆者として知られた眼科医(1875〜1956)で、当時、ソ連を代表する医学者であった。その活動時期は、帝政期からスターリン時代におよぶ。
(中略)
 フィラートフの植皮術をこのように紹介した記事を掲載した雑誌、『科学と技術』の発行元は、日本共産党科学技術部であった。以後、国内の医師たちの間に、この植皮術を試みる動きが広まっていく。
 共産党系の医療機関の歴史をつづった『民医連運動の軌跡』(全国民主医療機関連合会・昭和58年)には、「医療技術追求」の例として、昭和25年ごろ、高松、小豆沢(東京都板橋区)で行われた冷蔵植皮術の手術のようすや、島根で冷蔵植皮術のシンポジウムが行われたことなどを、記している。
 昭和27(1952)年4月27日付の『週刊朝日』には、「医学界トピックス 赤い若返り法」として、この療法が紹介されている。
 この時点では、植え込まれるのも皮膚にとどまらず、さまざまな臓器に広がり、「臓器の埋没療法」として脳下垂体、甲状腺、副腎、大血管壁、胎盤、臍帯が、写真とともに紹介されている。
 また、この療法で「若返った」例として、劇作や児童文学で活躍し、当時69歳の作家、秋田雨雀が紹介されている。
(中略)
 一方、アメリカでは、50年2月に上院でマッカーシー議員が行った、共産主義者の脅威を訴える演説をきっかけに、政府や公的機関からの共産主義者の排除—赤狩り—がはじまった。
 日本でもアメリカを中心とする占領軍は共産党の非合法化を打ち出し、6月6日には、「レッドパージ」が実行に移された。これにより35人の衆議院議員をはじめ、多くの共産党員、シンパが公職から追放された。この月の25日には朝鮮戦争が始まっている。
 これに対し共産党中央(主流派)は、指導部を地下に移す一方、反主流派を指導部から排除した。非合法化と分裂の双方が進行するなか、徳田球一、野坂参三ら主流派の指導部は北京に亡命、国外から党の指導にあたることとなった。
 国内の共産党は、「武装闘争」を新たな方針とし、全国各地でさまざまな衝突事件が起こった。また、都市を包囲する革命の拠点づくりのため、「山村工作隊」と呼ばれるグループが農山村に派遣され、オルグ活動に従事した。
 送り込まれたのは主に青年であって、その環境は劣悪であった。ときに医療班の派遣も行われたが、そこでも埋没療法が行われたという。以下はその体験談である。
《上部から工作隊全員の健康診断という指示があった。ほとんどが栄養失調的な状態にあるということで、栄養剤だったのだろうが、「メルスモン」という薬が配付された。MELSMONでMはマルクス、Eはエンゲルス、Lはレーニン、Sはスターリン、Mは毛沢東で、Oはオヤジ=徳球、Nはノサカで、万能的効果があるとか、そのうえ私など2、3人は埋没療法といって牛の脳下垂体とかを胸の皮下に挿入された》(三一書房『運動史研究4』由井誓論文より)
 このように、「埋没療法」や、それを応用する療法は、主に共産党系の医師の手で数年のうちに全国に広まった。しかし、その根拠が、細胞の「生きるためのたたかい」から生じる「生命刺激体」となると、いかにも旧時代の産物のようでもある。果たしてなぜこのような説が生まれてきたのか。(後略)

 

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