(前略)
実は日本の教育システムは途上国時代の産物である。欧米に追いつき追い越すという目標があり、そのためにやるべきこともはっきりしていて、国民みんなが力を合わせて一生懸命やれば、いずれは西欧並みのいい生活ができるという大前提があった。時あたかも大量生産大量消費時代。均質で程度の高い労働者を量産することが国策にも合致していたし、産業界からみても都合がよかった。文科省が全国一律の指導要領をつくったのは無難な選択だった。
ところが21世紀に入ったこの10年で状況は一変した。新興国の台頭で、日本の何十倍もの大量生産が可能な国がいくつも現れた。それどころか、彼らは日本の10分の1の人件費で日本人と同じスキル身につけ、駆使し、手強い競争相手となった。日本企業も、それらの人材を求めて続々と海外に事業を移してしまった。
一方、1人あたりGDP4万ドルを維持するための人材は、高度なITや金融のスキルを持つか、新しい事業を構想したりクリエイティブな創作のできる人に限られるようになった。しかし文科省のどこを探してもそういう人材を育てるカリキュラムは見つからない。
日本企業が求める人材も、グローバルに活躍できる人ということになった。それには英語の読み書きだけではなく、英語や中国語を使って外国人を惹きつける、説得できる、コミュニケーション能力が必要だが、これまたカリキュラムのどこを探しても見当たらない。
リーダーシップ自体を否定するところから、日本の戦後の「民主主義」教育はスタートした。いまさらリーダーシップと独裁の違いさえ分らない日教組に期待しても無理だし、人を出し抜くか、人と仲良くやることしか語らない日本の家庭教育からもリーダーシップをもつ人材は育たない。
北欧の小国は、海外で活躍するにはリーダーシップとコミュニケーション能力が不可欠だと気づき、1990年代の始めにカリキュラムをガラッと変えた。韓国も98年のIMF危機の際、金大中大統領が「二度とこの屈辱を味あわないように」とITとグルーバル化を2大国家戦略に定めた。
移民が多く、価値観もスキルも異なる人々の雑多な集合体であるアメリカは、教育は国家ではなく各学校が自主的にカリキュラムをつくっておこなうべきもの、という考え方になっているため、親と本人が学校を選択することによって将来必要なスキルを学ぶことができる。公立学校には目を覆いたくなる所も多い反面、北欧に負けない教育をおこなう学校も少なくない。中西部のリベラルアーツを専攻する私立の大学では教養、思考能力、社会貢献などをいまだにじっくり教えている。シリコンバレーは最先端のICTが都市の文化となっており、世界中から人材が集まっている。つまりアメリカのような解放社会では、国が教育方針を変えなくても、社会の一部に変革を自由にできる仕掛けがあるので、21世紀への対応が国としても可能になるのだ。(後略)