記事(一部抜粋):2011年9月掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

危機の時代にこそ必要な保守思想

 リスク(危険)と異なるものとしてのクライシス(危機)をさして、私は本欄で、「合理の枠外」の出来事と定義してきた。つまり、合理的な「規定」の外部において生じ、それゆえ合理的に「予測」することが叶わず、したがって合理的な「管理」を施すこともできない事態、それが危機なのだ。
 東日本大震災という危機に直面して我が民主党政権がルーリング(統治)という政治の要諦から大きく逸脱しつづけているのはなぜか。その政党がマニフェスト政治をかざしたことからして、すぐ、その理由が推察できる。政策の「数値と期限と段取り」をあらかじめ明示することができると構えた「政治における合理主義」が民主党をして危機統治から遠ざけたのである。保守思想は政治における合理主義を排する。それなのにどうして、保守思想の必要が言挙げされないのか。マスコミ世論およびそこに棲まう専門人たちの愚かしさも指摘されねばなるまい。しかしそれ以上に、これまでの保守思想が危機の問題を直視してこなかったということのほうが重要である。つまりこれまでの保守思想は、「危機を進んで招来することなかれ」と主張しはしてきたものの、「現に生じた危機にいかに立ち向かうのか」という積極的な論議を避けてきた。それは疑いようがない。
 大東亜戦争における大敗戦時にあってはむろんのこと、この東日本大震災にあっても、危機とは「既成の秩序が大きく崩落することだ」とわかる。だが、秩序崩壊のなかでも、生き残った人々は生活していかなければならない。そして生活なるものはかならず秩序を必要とする。「社会的な無秩序のなかでの個人的な生活秩序」、それがどんなものかが危機のなかで炙り出されてくる。換言すると、危機にあってこそ社会秩序の原基のようなものが剥き出しにされるのである。
 ソサイアティ(社会)は、その表層を観察すれば、ゲゼルシャフト(利害調整の契約体)であるが、その深層を覗きみれば、ゲマインシャフト(日常的感情の共同体)である。危機は、その表層の契約体を大きく損傷し、それにつれて深層のコミュニティ(共同体)を眼にみえるものにする。具体的には、家族や近隣におけるミューチャル・サッカーの仕組、それが社会の原基だということが明るみに出される。
 人間の意識にあっても、いわば本質直観とでも呼ぶべき明晰な洞察が生じるのは危機の状況においてである。危機にあっては、一寸先は闇といった類の、予測不可能な不確実性が人間の意識にあって広がってくる。しかし、そうであればこそ、みずからのコンシャスネス(意識の根源的な在り方)が浮き彫りにされる。そしてその根源的な意識の中心に人間のコンシャンス(良心)がうずくまっているということも知らされる。たとえば、妻子のためとあらば(死にたくはないが)死を選んでみせる、それが良心というものだというようなことが、危機の状況の具体的な進行の過程で、具体的に明らかになってくる。
 人間の本質が炙り出されるという意味では、被災者には失礼な言い方になるが、危機の到来は魅力に満ちたものなのだ。というより、危機において社会制度や人間意識の本質を洞察することができないならば、どんな危機統治もアドホック(場当たり)のものになるほかないのである。そんなふうに事が進むなら、危機は、統治されるどころか、混迷を深めてゆくばかりとなる。東日本大震災への報道や対策が朝令暮改や朝三暮四に終わっているのは、「危機における本質直観」が皆無といってよいからだと思われてならない。
 それは、日本国家が危機にはまるはずはない、なぜならアメリカ(という宗主国)が日本(という植民地)を危機から防いでくれるからだ、という戦後の日本列島人の劣等なる依存心の然らしむるところである。その宗主国の国際的な地位は、アメリカ国債の格付けの低下をみるまでもなく、歴然たる下降傾向にある。それに応じて日本の国際関係も、中国やロシアの不当な領土要求に如実にみられるように、危機の様相をみせつけはじめた。
 危機は、自分の本質を見究め自分の根拠を固めるための絶好の機会である。保守すべきはその本質とその根拠にほかならない。制度管理とは別物としての危機統治は、政治家のエクスペリエンシャル・ナレッジ(経験知)にもとづくプラクティカル・ナレッジ(実践知)によって、試行錯誤の厄介な作業として進められるしかない。危機統治というそれ自体が危機を多く孕む作業を少しでも安定させるもの、それが保守思想による社会と人間にたいする本質直観だと思われるのである(後略)

 

※バックナンバーは1冊1,100円(税別)にてご注文承ります。 本サイトの他、オンライン書店Fujisan.co.jpからもご注文いただけます。
記事検索

【記事一覧へ】