記事(一部抜粋):2011年6月掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部邁

独立心も統治力もない似非国家

 東日本大地震は、休みなき余震ばかりか、反原発という社会的余震をすらもたらしている。いや、それは日本社会にとってマグニチュード10.0の振動といっていいくらいのものだ。エネルギー供給は現代日本の産業体制にとっての生命線である。昨年まで、二酸化炭素の排出を抑えるべく原発増設を訴えていた民主党政権が、まともな議論なしに、反原発の社会的ムードに便乗している。自然災害より恐ろしいのは、こうした国民精神の崩落ではないのか。
 技術は、想定外の出来事としてのデインジャー(危機)にたいして、不十分にしか対処できない。その意味で「安全な技術」などは存在しない。とくに原発という技術に生じる事故は、その影響の範囲と期間の大きさにおいて、危機に満ちている。だから反原発の社会運動が起こることそれ自体は不可避の成り行きといってよい。なぜといって、国民の生命と財産が大きく損傷されるのは、まぎれもなく国家の危機だからである。
 しかし、人間の生にとって、生命は手段にすぎず、その目的は自立自尊の生涯ということだと思われる。それと同じく、国家にあっても、「自主独立」がその存続の目的ではないのか。控えめにいっても、「国民の生命・財産」と「国家の自主・独立」とは国家目的の二大構成要因とみなさなければなるまい。
 原発は、とりわけプルトニュウム発電のことを考えるとき、国家の独立に寄与するところ大である。太陽光や風力やバイオマスなどのいわゆる自然エネルギーは依然として開発途上にある。水力や火力による発電には環境破壊の恐れがある。石油や天然ガスは国際的な資源争奪戦にさらされている。といった事情に配慮すると、今の35%という割合が適切かどうかは状況判断によるとはいうものの、相当の割合でエネルギー供給を原発に頼らなければ国家の独立が危うくなる、それが日本の場合だといってよい。
 ドイツの場合には、フランスやイタリアから電力を購入する、という選択肢が与えられている。そればかりか、ロシアからの天然ガスの輸入を増やす、という方途もある。島国であるのみならず、中国や韓国やロシアと大いにしばしば競合の関係に立つ我が国にあっては、ドイツにおけるようなエネルギー供給の余地はきわめて少ない。ドイツにおける「緑の党」の猿真似をするくらいなら、原発推進の路線を堅持するフランスの(エネルギー供給の)自主独立ぶりについて、もっと本格的に関心を寄せる、それが日本の立場と思われてならない。
 エネルギー供給が20%、30%といった規模で削減されるということは、企業倒産、失業発生、社会保障費拡大、都市荒廃が進むということにほかならない。そうした(エネルギー危機の)社会的余震は、国家の独立をいっそう損なう。のみならず、国民の生命をすら危殆に瀕させるといって過言ではない。
 反原発は「核アレルギー」の一種と断じてよいのではないか。核武装がなければ(国防上の)独立が不可能であるのと同じく、原発がなければ(産業上および社会秩序上の)自主の姿を確保できないのである。
 もちろん、核エネルギーを「悪魔の火」とみなすのは、ごく真っ当な文明観ではある。しかし、現代文明は、その「悪魔との契約」を簡単には破棄できない段階に、とうに突入している。ほかの技術革新を文明の進歩と称えておきながら、その技術体系を下支えする原子力技術についてだけ反発するのは、ピュエリリズム(文化的小児病)に当たるといわざるをえない。(後略)

 

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