政界、財界、官界、学界そして報道界のすべてが、TPP(環太平洋連携)の関税撤廃同盟に日本も参加せよと主張している。だから、この春あたりに窮余の一策として、すでに死に体にある菅内閣が、「TPP加盟を選挙民に問う」との名目で、人気浮揚を図るのではないかと噂されている。つまり、世間にさしたる反対論もないというのに、「TPPの菅」を売り出して解散に打って出る段取りであるらしい。
勝手にヤリヤガレ、といっておくしかない。何の検討も議論もないままに国家の構造改革(と称する構造破壊)が強行される、それが平成の習わしとなっている。そうした悪習に染まった我が身について自省する廉恥心も公平心もなくした国民は、歴史の鉄則に従って滅びの道に入ればよい。
逆にいうと、TPP反対の極少数者たちは、負けを覚悟の上で、この自滅教徒たちにたいする警鐘を鳴らさなければならない。その鐘の音が、遠い未来にわずかながら残響することがあるかもしれないと夢想する。そうしなければ、この節制心の一片もない平成の世の中で、言葉を吐く勇強心が一滴も沸いてこない。
人間は、「未だ来たらず」未来へ「向けて」自分を「投げ出す」という意味で、プロジェクト(企画)を生きている。それが自由ということの内実だ。しかし、その未来には、確率的に予測可能なリスク(危険)だけでなく、そうした予測の不可能なデインジャー(危機)が待ち構えている。したがって人も人々も、おのれの「前面」を「覆う」のでなければ、つまり自己へのプロテクション(保護)がなければ、自由の企画はかならず挫折する。「自由と保護」の二元空間でしか生きられぬと知る者は、けっして自由「主義」や保護「主義」といったイデオロギーを振り回すようなことはしない。
資本が(情報や技術者を引き連れて)国際間を自由に移動できるという状況にあっては、自由貿易は「近隣窮乏化」あるいは近隣諸国の「産業空洞化」を惹き起こす可能性が小さくない。誰がそうするかというと、もちろん移動の不能もしくは困難なものとしての労働や土地や資源を豊富に持っている国家が、である。そうなのだということは、前世紀末から理論において論証され、事実において実証されてもいるのである。
TPPは、加盟(予定)10カ国のGDP総計のなかで占める比重からみて、日米2国間の関税(をはじめとする規制)撤廃協定である。というのも、その2国で90%余のウェイトを示しているからだ。したがって、アメリカの安価な(農産物をはじめとして医薬品や司法サーヴィスや金融資本も含む)商品が大量に流入してくると予想される。そうなれば、日本経済のデフレーションがさらに悪化する、それは火をみるより明らかである。
日本の工業製品が、(TPPのおかげで)アメリカに盛大に輸出されるようになると予測する向きにたいしては、莫迦も休みやすみ言え、といってやるしかない。
世界の金融を動かしているアメリカ経済がドル安政策をとるのは必定で、その為替政策によって日本の輸出関税撤廃の効果は簡単に吹き飛ばされる。現にオバマ政権は「輸出倍増」を謳っているのだから、そうなると見込むのが常識ではないか。——このあたりのことは我が友人中野剛志君が声を大にして訴えてくれているところなので、私がこれ以上に出る幕ではない——。
つまるところ、「自由貿易か、何となく自由で良さそうな政策だなあ」という子供じみた言葉づかいで、各界の年老いた指導者連が、「3つのM」に促されて、戯言を吐いているだけのことだ。
「3つのM」とは、ニーチェのいった「束の間」(モメント)の「気分」(モーデ)の「意見」(マイヌング)ということである。それに加えてマネタリズム(貨幣主義)、マーケティズム(市場主義)、マテリアリズム(物質主義)、マモニズム(拝金主義教)などを数え上げていくと、まさしく「Mの魔」に魅入られたのが平成日本だといわなければならない。TPPという不合理が経済合理化の総仕上げとして喧伝されているのは、何あろう、こうした「Mの魔」の吐く火焔によって我が列島人のオツムが焼き焦がされたことの結果にすぎないのである。
「競争第一」を唱えた小泉改革が国を挙げて反省されて、「生活重視」の民主党に政権が移った。その政権交代が日本初の「民主革命」ともてはやされもした。その革命とやらが、たった一年で、「国際競争優先」の反革命へと(無自覚のままに)逆戻りするのである。この列島人におけるオツムの混濁は、いかにも酷い国民精神の劣等化というほかない。そのことを指摘する声がいくら耳を澄ましても聞こえてこない。神でも仏でもない生身の人間には、やはり、勝手にヤリヤガレとほざく以外に手はないのである。(後略)