記事(一部抜粋):2011年1月掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部 邁

阿呆な政権が日本の真秀を滅ぼした

 昨年8月30日の衆院選の夜、あるテレビ番組で、私は「この政権は日本を滅ぼします」と予告しておいた。出演者にジェラルド・カーティス氏や金子勝氏たちもいた。彼らはこぞって「政権交代を歓迎する」と述べていた。それもそのはず、この政権への当初の支持率は80%であり、前東大学長にして政治学者の佐々木毅氏などは「日本に初の民主革命が起こった」と涙を流さんばかりにしていたという。それから1年余が経ち、日本の「真秀」(つまり真に秀れたところ)の最後の一片までもが「大衆社会」の流れのなかに没してしまった。この「真秀の完全流出」の原因を「阿呆の民主政権」に帰すわけにはいくまいが、民主党の「財源なき福祉内政」と「軍略なき宥和外交」が我が国における「歴史の終焉」の幕引き役を演じたことは否定すべくもない。巷間では「民主党には政権から降りてもらいたい」とか「こんなことなら自民党のほうがよかった」という声が少しずつ高まってはいる。しかし、「時すでに遅し」、「後悔先に立たず」といっておくしかあるまい。ここは一つ、年の暮れということもあるので、民主党の福祉内政と宥和外交の双方を支えている根本の価値観に、つまり「生命至上主義」に痛打を与えて溜飲を下げておきたい。
「命あっての物種」も「死んで花実が咲くものか」も、視野を自己自身に限定するかぎり、まことにもっともな格言と聞こえる。たしかに、死んでしまったら、この自分からすべての精神活動と身体活動が消え失せる。だから、人間がおのれの生命に執着するのはやむをえぬ仕儀と認めなければならない。しかし、生命をもって最高の価値と位置づけてしまうと、おのれの心身の活動が脱出不能の矛盾に取り込まれる。なぜなら、自分の食している動植物のすべてがまさに生命そのものであるからだ。換言すると、生命第一主義は「人間の生命」を至上とする価値観としてのみ成り立つのである。したがって、「人間とは何か」という問いが発せられ、その答えは「精神活動をなすのが人間だ」ということになる。
 生命は、精神という目的にとっての手段にとどまる。それでも生命至上主義に言い分があるとしたら、「人間の精神は、人間が生きているとかならず、価値ある活動を展開する」とするヒューマニズム(人間性への礼讚)と、進歩主義(人間性は不断に良き事態への変化をもたらすとする見方)とに立たなければならない。だが、近現代とは「戦争と革命」における大量の「破壊と殺戮」の経緯のことである。それでもなお「ヒューマニズムと進歩主義」を唱えるのは、阿呆のみに可能な業ではないのか。結局、生命至上主義は、生命の延長と引き替えに人間精神の乱脈や衰弱を野放しにする、とんでもない価値観だとみなす以外にない。福祉内政や宥和外交の政治に偽善と欺瞞の臭いが濃く漂うのはそのせいなのだ。「健康と長命」も「平和と安全」も、国家の歴史という精神の遺産を引き継ぐ者たちとしての国民にとっては、せいぜいのところ手段としての意味を持つにすぎない。
 そうした手段次元での価値を、目的次元での価値のために、犠牲にしなければならないときもある。たとえば、生命至上と構えていると、健康を守るために野蛮な行いをなし、長生きするために軽率に走り、平和のために卑劣を重ね、安全のために臆病風を吹かすしかない、という状況がありうる。逆にいうと、正義、節度、思慮そして勇気を守りつづけるには、健康や長命そして平和や安全を犠牲に供さなければならない時機もある。それらの目的価値を守るためならば、「死の危険」に飛び込むことも厭わず、という意志を一片も持たないようなのは人間精神ではない。それは国民の歴史のモーレス(習俗)に反し、国民の社会のモーラル(道徳)から逸脱し、国民の活動のモラール(士気)を衰えさせる。敗戦後の日本はその意味で不徳の路線を進んできた。そして民主党政権に至って、戦後という名の電車が脱線したということなのである。
 戦後にあって、「ヒューマニズムと進歩主義」と並ぶもう一つの価値の支柱は「平和と民主主義」であった。この聞こえのよい標語も、「戦争と独裁主義」が幅を利かせているあいだは結構な説得力を発揮する。しかし、平和とは戦争の「ない」ことにすぎず、民主もまた独裁の「ない」状態のことをさすにすぎない。平和を守るために「戦争の準備」をしなければならないとか、民主を続けるために(政治的指導力という名の)「疑似の独裁」を演じなければならない、ということもありうる。「戦争と平和」そして「独裁と民主」はそれぞれ表裏一体をなしているのだ。
 ピース(平和)の原義がパクス(強者の弱者にたいする平定)であることを忘れるべきではない。「平和と安全」を第一義とするなら、弱者は強者に素直に服属すればよい。しかし、それでは「自立と自尊」が守られぬというので、実際のパクスは「平定されたがわの弱者の不満がわだかまる不安定な統治状態」となる。戦後日本においては、きわめて例外的なことに、パクス・アメリカーナは大いに安定していた。この列島はアメリカの51番目の州——ただしアメリカ本国への投票権を持たぬ自治州——なのであった。この伝でいけば、この列島は次には中国の11番目の准州になるのであろう。
「戦争のない状態」(平和)を維持するには強力な国防軍が必要なこと、そうなってはじめて国家の「自立と自尊」のための平和となりうること、それを戦後日本は知らないできた。尖閣諸島に中国の(準)武装船がやってこようとも、韓国の延坪島に北朝鮮の野戦砲弾が飛んでこようとも、この国でいわれるのは「日米同盟は大丈夫か」という不安の声だけときている。「自衛隊の武力を強化しよう」という提案は、百年待っても、どこからも出てこないであろう。
「独裁のない状態」(民主)を達成するために戦後日本が依拠するに至ったのは、ポピュラリズム(人気主義)という名の疑似独裁である。ところが、この「疑似性」がトンデモナイ種類のやつで、政権支持率が1年前には80%、1年後には20%といったふうに乱高下する。そんなに人気の振幅が大きいのならば、選挙民の判断力そのものが狂っているとみなすべきである。だが、民主とは「民衆に主権あり」とする価値観なので、選挙民の判断力は神聖の域にあると虚構されている。こんな疑似独裁が中国やロシアや北朝鮮の真正独裁にかなうわけがない。
 こういう体制では、世論でも議会でも、まともな議論が展開されるのは奇跡に等しい。まともな議論のためには、国民の「センチメンツ」(根本感情)という共通の基盤に立った上で、ゆたかな説得力を経て断固たる決断力へと至る言語能力がなければならない。そうした言語能力が精神力の本体である。「命が第一」などと半世紀余に及んで叫びつづけている国民に、そんな精神力が備わるはずもない。はっきりいわせてもらおう、我ら列島人は劣等人になりはてたのである。そうなのだと深く自覚するのが、国民活力の再生に当たっての第一歩である。

 

※バックナンバーは1冊1,100円(税別)にてご注文承ります。 本サイトの他、オンライン書店Fujisan.co.jpからもご注文いただけます。
記事検索

【記事一覧へ】