犯人隠避罪で、大阪地検前特捜部長の大坪弘道と前特捜部副部長の佐賀元明が、10〇月21日に起訴され、それに合わせて監督責任がある前大阪地検検事正・三浦正晴と前大阪地検次席・小林敬の2人が懲戒処分を受けると同時に、辞職した。
これで大阪地検は、検事正、次席、特捜部長、副部長、主任検事の縦ラインが、すべて検察庁からいなくなるという異例の事態となった。それだけ証拠を改竄したという主任検事・前田恒彦の犯した罪は重かったわけだが、捜査する最高検に、「早くこの問題にケリをつけ、蓋をしてしまいたい」という思惑があるのは間違いない。そういう意味では、大坪、佐賀の両被告が容疑を否認、法廷闘争に持ち込んだのには意味がある。
大坪、佐賀の両被告に、前田被告がフロッピーディスクを故意に改竄したという認識があったかどうか――。
犯人隠避罪の法廷で問われるのはこの一点である。
「報告は受けたが、過失だということで故意だとは思っていなかった」
こう主張する大坪、佐賀の両被告の証言を覆すのは難しい。2人とも事件捜査のプロ。どう攻めてくるかはわかっており、有罪にならないという自信があるから否認を貫いている。最高検の拠り所は、「故意に改竄したと報告した」という「前田証言」だが、それだけでは弱い。
事件を取材する大阪地検担当記者がいう。
「前田は証拠を改竄するようなウソつきだという認識が大阪地裁にはあって、そんな男の証言は信用しないでしょう。検察が要請する2人への接見禁止が認められなかったのは、裁判所の検察捜査批判の表れです。ほかに犯人隠避を証拠づけるのは、改竄を直訴した前田の同僚検事らですが、彼らだって改竄の事実を知りつつ、法廷では有罪にするべく一体となって動いた。いわば同罪。そんな証言だけで、『認識』という個人の心の領域にまで踏み込むのは容易ではありません」
それに、実のところ国民にとっては、今回の事件が、前田の「個人犯罪」か「地検ぐるみか」といった問題は、たいしたことではない。問われているのは、検察捜査のあり方であり、法務・検察という役所のシステムそのものである。
戦後、すぐに特捜部が置かれた時から、検察庁はこの部署を、国家権力のチェック機関と位置づけ、政治家や官僚の贈収賄、脱税などに目を光らせてきた。
人数は決して多くない。最初に東京、次に大阪、その後に名古屋が加わって3地検に特捜部が置かれているが、現在でも70名前後の検事で構成される。
こんな少人数で、終戦直後の昭電疑獄、造船疑獄から始まって、ロッキード、リクルート、イトマン、東京佐川、金丸信といった大きな事件を手がけ、「最強の捜査機関」といわれたのは、捜査権に公訴権という強大な権力を持っていたからだ。
公訴権とは、起訴するか否かを決定する権力である。通常検察官は、警察官、国税調査官、証券取引等監視委員会、公正取引委員会などの告発を受けて、起訴するかどうかの判断を下す。つまり国家権力の捜査・調査の結果、疑わしき人物や企業を、法廷で裁くかどうかを決めるのが検事である。
ところが、特捜部は公訴権を携えて捜査する。するとどうなるか。
「起訴しやすい捜査になります。例えば、ある政治家が公共工事でゼネコンに依頼を受けて役所に口利きをしたという仮説を立て、そのシナリオに沿って捜査、供述調書を取っていくことになる」(法曹関係者)
これが悪名高い「シナリオ捜査」である。もちろん、根拠がないわけではない。内部告発、司法マスコミやヤメ検(検察OB弁護士)など協力者からの情報提供があり、そう信じるに足ると思った時に動き始める。これを検察関係者の間で「筋を読む」という。
狙われた容疑者にとっては悲劇である。強大な権力が、無理強いをする。「小沢事件」がいい例だろう。民主党元代表・小沢一郎の政治資金団体に政治資金規正法に違反する虚偽記載があった。東京地検特捜部はその先に、違法な裏献金があるに違いないと筋読みをして、秘書やゼネコン幹部を呼んで責め立てたが、結局、立証できなかった。
そこで諦めた東京地検はいいが、大阪地検は元厚労省局長・村木厚子や衆院議員・石井一の証言が取れないまま起訴、無罪判決で大恥をかいたうえに、証拠改竄という罪まで犯した。
かつては賞賛され、「最強」とまでいわれた特捜部が、なぜこんなダメな役所になったのか。狙われる側に耐性が付き、捜査のプロを育てないローテーション人事による捜査能力の弱体化など、いくつかの原因が考えられる。ただ、ハッキリしたのは「シナリオ捜査」の限界である。
ヤメ検のひとりが嘆息する。
「特捜部が絶大な権力を許されたのは、国民やマスコミの支持を得ていたから。力が衰え、冤罪など弊害が目立つ今は、特捜部解体論が出ても仕方がない。権力のチェック機関は必要だが、捜査する検事がそのまま公訴権を行使するようなシステムは変えるべきだろう」
実は、検察幹部が恐れるのは、検察庁が特捜部を通じて政官財に睨みを効かせるという今のシステムを否定されることである。(後略)