記事(一部抜粋):2010年8月掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部 邁

政治の抹殺、それが総選挙

 民主党大敗、自民党圧勝、「みんなの党」躍進、それ以外は鳴かず飛ばず、というのが今次の参院選であった。奇妙なのはただ一つ、1年前に「小泉改革からの脱却」があれだけ大声で騒がれ、その結果として鳩山政権への支持率が80%になりもしたというのに、小泉改革を素直に踏襲している「みんなの党」が大きな顔でのさばりはじめたという点である。
 「第三極」にもいろいろありうるはずだ。「みんなの党」などというふざけた名前の政党が第三極に立ったのは、要するに、その党が民主と自民の双方を批判するのに声高であったからであろう。1年前には歓呼の声で迎えられた「政権交代の可能な二大政党制」が、1年後には、名なしの権兵衛みたいな小政党に蹴散らかされている。それは世論という膨らんだ風船の中身が無であることの表れである。そうとわかれば、何を本当の焦点とすべきかについて、のんびりと議論するのが得策であろう。
 総選挙の「総」とは何か
「総選挙」はジェネラル・エレクションの訳語である。だから、それは「一般選挙」と呼び替えられて当然であり、そのように訳語を変更することにより、スペシャル・エレクション(特殊選挙)との違いが明らかになりもする。さらに、スペシャルとは「見る」ことにほかならないのであってみれば、「眼前にみえる特定の争点」を超えた、より広い範囲の考察の下になされる選挙、それが総選挙というものだと了解できる。
 つまり、シングル・イッシュウ(単一争点)の選挙は総選挙にあらず、ということである。もう少し厳密にいうと、その単一(もしくはごく少数)の争点がその国家の長期未来にとって最も根本的な問題である、ということが証明されないかぎり、単一争点選挙は総選挙の名に値しないというべきだ。しかし小泉政権時の郵政選挙にせよ現下の菅政権における消費税選挙にせよ、あらゆる政党が単一の争点を(単に選挙民の耳目を刺激することができるという理由だけで)誇大に喧伝することにより得票を増やそうと躍起になっていた。総選挙はいまや特殊選挙に堕落してしまったといって過言ではあるまい。
 特殊選挙にあって、その単一の争点は短期の視野においてのみ意味を持つ。それもそのはず、長期の視野に立てば、たくさんの争点が互いに絡み合っていると知らざるをえず、そうとわかれば、単一争点そのものが消失してしまうのである。少なくとも国家の長期的な在り方にかんする大綱が取り上げられるのでなければ、総選挙とはいえない。今度の選挙についていえば、沖縄米軍基地をめぐる国防問題、子ども手当をめぐる社会福祉問題、地域分権をめぐる地域社会問題などが総合的に論じられてはじめて総選挙といえるのに、実情は「消費税増税は是か非か」ということだけが争点になってしまっていた。
 いうまでもないことだが、多くの選挙民が国家の大綱について十分の知識や理解を有するはずがない。ましてや、政策の「数値・期限・段取り」としてのマニフェストやらの適否を選挙民が判断できるわけがないのである。選挙民において一般的に可能なのは、国家大綱についての立候補者の語り口、その優劣を判断することくらいであろう。一言でいえば、立候補者の人格的能力を識別するのが総選挙の課題なのである。そして、政策の具体的な決定は国会の審議にまかせる、というのが代議制の趣旨でもある。
 確認しておくと、国会審議が必要なのは、与党の政策提案が間違っている可能性があるからこそなのだ。与党は、おのれの誤謬が野党からの批判によって明るみにさらされたら、それを進んで修正しなければならない。なぜなら、それを拒めば、おのれの政権維持が危うくなるからである。それは、国会審議において何が明らかになっているかを判断するくらいの能力は国民に備わっている、と想定しているということを意味する。刺激的な単一争点に興奮するような国民、政治家の(人格ではなく)人気にのみ反応するような国民、国会における「討論の絶滅」に無関心な国民、そんな国民に総選挙に参加する資格があろうはずがないのである。
 総選挙の「選」とは何か
 エレクションの原意は、「神に選ばれし者」としてのエリート(選良)は誰かを見極めることだ。そうはいっても、世俗化を旨とする現代においてディヴァイン・ウィル(神意)の在り処を直接に論じることなど、カルト教団のみがなしうることである。しかし、神意を論じることができなくとも、国家の過去と未来を一貫するいわば「歴史の運命」ともいうべきものについて、選挙民は何らかの(崇高とまではいわなくとも)超越の感情を抱くことはできる。つまり、「歴史の英知」を先祖から受け継いでそれを子孫に手渡すという義務、それに殉じる感覚をいささかも抱懐していないというのでは、とてもエレクト(選挙)する者とはいえないのである。
「選」という言葉の意味も、元来は「カミに供物を捧げること」(饌)に通じている。だから、目前の現世利益が多いか少ないかに応じてのみ票を投じる者は、選挙民の名に値しない。おのれの属する国家の運命に、その運命の具体化に、身を投じるという感覚を心理の奥底に抱いていてこその選挙民なのである。そういう感覚を現代の国民が喪失したのはなぜか。それは、今生きている生者としての現在世代が国家の命運をいかようにも左右できる、それを左右するための社会契約の場が総選挙なのだ、という迷妄に現代人がとらわれているからである。いわゆるマニフェスト政治こそはその迷妄が頂点に達したことの現れにほかならない。
 生者が国家の進路を大きく動かすという面があることを否定しているのではない。ここでいいたいのは、生者の感情や理論のすべてが、国家の辿り着いたその時代の産物であるという面にも配慮せよ、ということだけである。国家という存在を操作する面とその存在に拘束されている面とを重ね持つのが生者たる国民なのだ。そうと自覚すれば、国民たる者は、歴史の過去をレトロスペクト(回顧)し歴史の未来をプロスペクト(展望)するという視野のなかに身をおかなければならない。
 今時の総選挙において、あの大東亜戦争のことを回顧し、戦後昭和期の転変を振り返り、「平成大改革」の大失策の数々を見直し、そしてこの新世紀に見通される世界大動乱について思索する、というような世論がどこにあったというのか。平成22年7月11日という歴史の一齣においておのれの歴史感覚を最大限に奮い起こす、という構えはもはや日本列島人のものではないかの如くである。それは「選」の振る舞いではないと断定してよいのではないか。
 現代における選挙民は、時代の流れにたいする(今という時点におけるいわゆる接線としての)瞬時の気分を、反映するものにすぎない。もっというと、その接線の果てに浮かんでくる幻想、つまり歴史感覚なき非国の民人たちの心に暫しのあいだ映される(「友愛」や「元気」を見本とする)幻影、それが総選挙である。幻想であり幻影であるからには、総選挙の結果たる与党と野党の区別は、成立したとたんに崩壊する。そのことを最も痛切に感じているのは政治家ではないのか。
 おのれの存在が幻影だと知った政治家は志操、自信、勇気そして思慮のすべてを失っていく。その意味で、総選挙とは政治家殺戮の惨劇のことなのである。

 

※バックナンバーは1冊1,100円(税別)にてご注文承ります。 本サイトの他、オンライン書店Fujisan.co.jpからもご注文いただけます。
記事検索

【記事一覧へ】