預金総額が約6000億円と、規模からいえば地銀中位行の実力ながら、知名度と話題性においては群を抜く存在の日本振興銀行(振興銀)に、捜査当局のメスが入った。警視庁捜査2課は6月11日、金融庁検査の際、振興銀の幹部が電子メールを削除するなどの検査妨害を行った疑いで、同行とその関係先数10か所を家宅捜索した。
振興銀は、別名「木村銀行」である。
日本銀行出身の経営コンサルタントだった木村剛が、広く知られるようになったのは、「小泉改革」を担う元金融相・竹中平蔵の誘いで金融庁顧問に就任、メガバンクに厳しい金融検査マニュアルを押しつけて、金融改革を断行してからである。
「外資の手先」といった批判を浴びるようになった木村だが、そうした日本の金融機関の内向きの姿勢や、リスクを取らず中小企業を大切な顧客として遇さない体質を批判、自ら銀行を立ち上げた。それが2004年4月にスタートした振興銀である。
金融庁で顧問を務めた金融エリートが、捜査当局に狙われ、「最終ターゲットは木村剛」(警視庁関係者)と言われるほど追いつめられたのはなぜなのか――。
設立時から振興銀は波乱含みだった。
木村は創業オーナーではあるが、それは結果としてそうなったのであり、木村に「ミドルリスク・ミドルリターンの銀行をつくりたい」と持ちかけたのは金融業を営む落合伸治だった。03年3月、当時35歳の落合は、銀行業への「熱い思い」を語り、その夢を叶えるべく木村は、人材を集め、環境を整え、尽力した。
03年9月、創業へ向けての準備過程で、木村は『金融維新』(アスコム)を上梓、そのなかで、「命をかけて全責任を取る」という落合の若さと潔さに感銘したといい、その情熱に後押しされて、「金融維新を信じ、日本復活のための狼煙をあげるこのプロジェクトに、自分のレピュテーション(評価・名声)を賭ける」と言い切った。
しかし、20歳で会社を起し、この時までに15年のノンバンク社長としての経歴がある落合は、その分、周囲に怪しげな人脈が多かった。そのうちのひとつが表面化したのが、04年4月、開業の直前に発覚したキャッツ事件(白アリ駆除のキャッツという上場企業で発覚した株価操縦事件)への関与だった。
落合自身が事件に関与していたわけではないが、その友人が逮捕されており、このまま落合を振興銀の社長にするにはコンプライアンス上の問題があるとして、木村は友人の元銀行員の小穴雄康を社長に据えた。この頃から、社外取締役として「側面支援」のはずの木村が、前面に出て、経営に口を出すようになった。株も買い、開業後の04年夏に繰り返した増資を引き受けて、筆頭株主となった。
『金融維新』のなかで、「一部の無責任なマスコミは、関係者の真摯な思いを素直に受け止めることなく、非常勤の外部取締役の一人に過ぎない私の名前を冠して、『木村剛銀行』などというくだらないレッテル張りを始めようとしている」と書いた木村だが、「木村剛というレピュテーション」を守るためには、落合を排除、自分が前面に出るしかなかった。しかし、これが災いの元となる。
木村に排除された落合は、その周辺人脈を使い、木村と暗闘、切れた木村が「社内機密資料の漏洩」を理由に、11月26日、落合を懲戒解雇すると、2人は全面戦争に突入、落合はさまざまなマスコミに登場、木村批判を展開した。
プライドの高い木村は、マスコミで反撃、泥仕合になることは避けたが、行内で支配力を強めるとともに、「ミドルリスク・ミドルリターンの中小企業のための新銀行」というコンセプトを、自分の手で完成させ、評価を受けたいと考えるようになった。
ところが、所詮は経営コンサルタントの木村に、5〜15%の金利で貸し付けるノウハウはない。融資先を見つける能力も審査する能力もない。木村だけでなく、大銀行出身の創業メンバーも同じだった。つまりビジネスモデルが確立できなかった。
銀行だから定期預金の金利を高くすれば、預金は集まってくる。しかし、融資先がなく多くは国債購入に回していた。まさに木村が批判していたメガバンクと同じ轍を踏んでいた時、「卸し金融」の妙味に目覚める。消費者ローン、商工ローン各社に貸し付けて高い金利を取るとともに、その顧客を取り込む作戦を開始した。
振興銀関係者が、次のように振り返る。
「ローン会社が、金利を引き下げ、貸し付け条件を厳しくする改正貸金業法と過払い金返還請求の急増で苦しみ、当行を頼ることが多くなりました。彼らには、顧客開拓能力と回収能力はあるけど資金がない。我々には預金はあるけど、中小企業を相手にする能力がない。そこをうまく合体させた」
具体的には、ローン会社の営業債権(顧客への貸付金)をブロック買い、資金手当てをつけてやった。回収は業者に責任を持たせ、できなければ営業債権を引き取らせた。また、振興銀が優良顧客を取り込んで、ファイナンスをつけることもした。
このビジネスモデルに気を良くした木村は、顧客のネットワーク化を志向する。完全に取り込んで、支配権を握り、グループの総合力で事業の底上げを図るという作戦である。そのために、08年7月、「中小企業振興ネットワーク」を立ち上げた。(後略)