私は今なお(講演の)旅芸人のような生活を続けていて、そのおかげで、「全国津々浦々」における世論の動きを察知できる。といっても、その動きに目を見張るようなものは何もない。最近でいえば、「日本の政治はどこまで落ちるのでしょうか」という質問がひっきりなしに寄せられる。私のほうは、「この崩落に歯止めはかけられないでしょうね。落ち切るところまで落ちて、世論なるものが完全な沈黙に入ってくれれば、そのとき、まだ堕落を免れている人材が1万人に1人、つまり老人や赤ん坊を含めて全国に1万2800人おり、彼らが、呆然自失している9割9分9厘もの割合の人々に、政治の進路を指示するということになりましょう」ととぼけた返事をすることにしている。
明治維新にたいする評価はともかくとして、それに積極的に参画した志士たちは3000人といわれている。当時の日本の人口は3000万人であるから、やはり1万人に1人の割合だ。現代民主政治にあっては、その1万分の1すらが世論の圧力によって摩滅させられて、せいぜいのところ政治的発言の場から隠遁するという道を選んでいる。世論の動向がでたらめなことを嘆いたり怒ったりしても、世論とはいつの世にあってもそういうものなのである。世論と正面から対峙してみせる勝れた少数者がその影をますます薄くしていること、それが民主政治を途方に暮れさせているのだ。
小沢(民主党)幹事長がどこぞの講演会で「民主主義を日本に定着させるべく、きたる参院選に全力で取り組む」と演説したとのことだ。民主主義がはてしなく紊乱していく様子に国民のほとんど十割が心底から唖然としているというのに、この民主党政権の誕生を政治学者や政治評論家が「民主革命」と礼讚し、与党幹事長がその「革命の定着」を目論んでいる。世論によって押し上げられた政権が世論によって早々と見捨てられつつあるという現実にまったく無頓着なのだ。この光景をどう解釈すべきなのか。外交が「オキナワの基地移設」で行き詰まり、内政が「福祉のバラマキ」で頓挫することは、昨年8月末の衆院選の段階ですでに(私ごとき者にも)明確に予測されていた。だから、選挙当日の(ある小さな)TV報道番組で、私は「この政権は日本国家を最終的に崩壊させます」と言い放っておいた。
半年前に自分らで選出した政権を半年後には見限っている、という世論の動きは何を意味するか。世論とは当てにならぬ代物だ、それゆえ世論に寄り添おうとするものとしての民主政治もまたたわいない制度だ、という一事である。このあまりにも明白な現実を前にして「民主主義の定着」がなおも叫ばれるというのはどういうことか。それは、「民主主義は多数決だ」という真理をより多くの人々が腹の底からわきまえよ、という訴えだとしかみなしようがない。
デモクラシーつまりデーモス(民衆)のクラティア(政治)は、たしかに、民衆という名の多数者が投票に「参加」し「多数決」で集団的意思を決定する、という制度である。小沢発言に意味があるとしたら「多数決に不平不満を述べつづけるのは、デモクラシーが定着していない証拠だ」ということだけである。つまり、多数決は「少数派排除」の制度にほかならぬからには、この小沢発言は「少数派排除のどこが悪い」と豪語しているに等しい。
だが、排除の正当性はどこからやてくるのか。それは「多数派の判断がおおむね正しい」とみなすこと以外にはない。これをさして、トックヴィルが175年も前に「知性に適用された平等理論」と(批判的に)名づけた。要するに、平等理論を信じるなら、知性の可能性は万人に等しく賦与されているということになり、次に、足し算として、多数派のほうがより多くの量の知性を蓄えている、という理屈である。
こんな子供っぽい理屈を信じるのは、あっさりいって阿呆のほかにはいない。多少とも人生経験を真っ当に積んだ者なら、「真実をめざすものとしての健全な知性は少数派に宿る」、つまり「啓蒙が大事なのは健全な知性は凡庸な者には近づき難いものであるからだ」という経験則を学んでいる。たとえ(政治的混乱を避けるために)多数決という制度に立脚しなければならぬのだとしても、少数派を議論の場に招いて、その議論の道程で少数派の主張を何ほどか取り入れるという構えがなければ、デモクラシーは「多数派の専制」となる。我が国会において生じているのは、まさにこの種のティラニー(専制)である。みよ、まず、帳尻の合わぬマニフェストが何の討論もなしに国会を通過し、次に、帳尻を合わすために前のとは別のマニフェストがまたぞろ国会で決定される。この「言葉の矛盾」を平気でさらけ出すことそれ自体が、言葉における「矛盾の解決」をめざすものとしての討論を「単なる空気の振動」と化していくのである。(後略)