「鳩山はだらしない」「小沢はきたない」「民主党政権のふがいなさは自民党のそれを上回る」といった声が巷間に広まっている。しかし、そんな自明のことを予測できなかった巷間の世論のほうがよほどに酷いのである。世論を政治に直に反映させようとする直接民主制にあっては、政治家を声高に批判する権利を国民は持たない。そういう政治家を選んだのは当の国民だからである。
それを察してのことであろう、鳩山・小沢の金銭スキャンダルにたいするマスコミの指弾はほとんど紙礫のごとくにひよわであった。この政権の誕生を「日本史上はじめての民主革命」などともてはやした左翼系ジャーナリストは、政治家の金銭スキャンダルを暴き立てるのを商売種としてきた。そうであってみれば、さぞかし内心では立ち往生していたにちがいあるまい、と同情してやりたくもなる。
だが、この一場の笑劇に終わった民主党政権誕生のドタバタのなかに、人類最後の政治制度である民主主義の、出口なしの悲劇が予告されている。我が国の「戦後」は、民主主義に一片の疑念も寄せないできたせいで、その悲劇を、いま、あまりにも露骨な形で演出しようとしているのだ。この政権の最大の特徴、それはイデオロギーとしての民主「主義」の断末魔の声ということになる。死すべきであるのに死ぬことの叶わぬ民主主義の、いつまでも続く苦悶の始まり、その合図を我々は聞いているのである。
デモクラシー(民衆政治)は「多数参加の下での多数決制」という政治制度のことにすぎない。しかしデモクラティズム(民主主義)は、「民衆に主権(絶対の権利)がある」とする文化制度をも含んでいる。両者を合わせて、「多数派の世論」によって「少数派の意見を絶対的に排除する」、それが民主政治の基本線となる。つまり、民主政治の基本矛盾は、「多数派のティラニー(専制)によって、少数派の(正統かつ正当かもしれない)異論が抑圧される」という点にあるのである。
その抑圧の構造は次のような三脚から成り立っている。一つに、民主主義のイデオロギー制が強くなるにつれ、パーラメント(議会)が「多数決を強行する場所」にすぎなくなる。そして「討論の絶滅」が進行する。そこでは、多数派の知性と徳性がイムパークト(不完全)でありフォリブル(誤謬を犯しうる)であることが看過されている。もっというと、多数派の判断なるものは世論のポピュラリズム(人気主義)に汚染されていることが多い、というまぎれもなき歴史的事実が故意に見過ごしにされている。
二つに、少数派の判断となって現れてくるのは、実は、「多数派における自己懐疑」の意見であることが少なくない。だから、それを抑圧するということは、多数派を(流行になびく類の)軽信の徒に落とすということにほかならなくなる。その結果、多数派は「単純な刺激」をもたらしてくれる「流行の世論」にますます吸い寄せられていく仕儀となる。
三つに、これが最も重要な点だが、多数派の意見は(過去の死者たちが残した)「伝統の精神」にもとづくものではない。それもそのはず、幾多の時代の危機をかろうじて乗り越えるのに成功してきた歴史の英知は、おおむね少数派のものであったのだ。つまり、危機への洞察と解決の知恵が多数派によって抱懐される、というようなハッピネス(偶然の仕合わせ)に恵まれるほど歴史は甘いものではないのである。
民主主義は大なる可能性でアナーキー(無秩序)とアノミー(無規範)に襲われる。この混乱や混迷を民主主義のなかで終息させようとすれば、ほぼ必然的に、「民主主義を民主主義的に自己放棄する」しかない。それすなわちディクテータンシップ(独裁制)の選択である。1933年におけるヒットラーへの全権委譲が国民投票で行われたという一事によくうかがわれるように、独裁制は民主制の発展形態なのである。わが国の民主党政権においても小沢独裁なるものが囁かれている。より広くいって、強力な政治的指導者によって差配されるステーティズム(政府主導体制)がなければ政治のポピュラリズムも経済のコムペティヴィズム(競争主義)もうまく作動しない、とみるのが現代の趨勢である。その意味でなら、民主制のおのずからなる置換形態としての独裁制、それが現代文明の近未来の姿だといってよい。
独裁制の実質はもちろん「政策決定における独裁」にある。しかし、小沢独裁なるものにおいては、政策決定は二の次どころか三の次、四の次となっている。つまり「独裁制の形骸化」がこの列島で進んでいるのだ。そしてその形骸化こそはモダニズム(近代主義)の極致なのである。明治維新この方、近代主義を疑うことを知らぬ日本の近代史が、ついに、「民主主義の腐敗」における最先頭の先進国であるという状況をもたらしたのである。(後略)