記事(一部抜粋):2010年2月掲載

連 載

【流行流言への一撃】西部 邁

鳩山的偽善と小沢的独善

(前略)首相は、あの(無邪気というよりも)豆鉄砲を食らったような顔付きで、「命のための政治」を事あるごとに唱え、ついには「この列島には日本人だけが住んでいるのではない。外国人もいるし、動物も植物も住んでいる」とまで宣うておられる。フラタニティ(友愛)とは、元々は、兄弟愛であり同胞愛のことである。しかし首相の「はらから」(胞)はまことに広大で、その友愛も生きとし生けるものに万遍なくばらまかれるものであるらしい。
 人間には「生まれながら」にして主権が宿る、という戦後民主主義を信じるかぎり、首相の友愛政治はまことにもっともと頷くしかあるまい。動植物の命を食いちらかした上で「命のための政治」とは虫がよすぎると文句をつけることはできよう。しかし、様々なネーティヴ・ライツ(生まれながらの諸権利)の最高位にあるものを主権とよぶのであるから、動植物の生命にもその種の権利があるという見方を無下に否定することなど、できるわけがない。
 首相が理解していないのは、ネーティヴという言葉には、ナチュラル(自然的)ということだけでなく、ナショナル(国民的)という含意もあるという一事である。
 国民ならば国語を持ち、その国語は国家の歴史の産物である。歴史が今に運んできた伝統には主権めいた厳かな知恵が蔵されているかもしれない。しかし命そのものは、動植物のそれと同じく、おおむね遺伝的な資質によって動かされる。それに奉じるのが政治だといわれたら、子どもはいざ知らず、大人たる者、首かしげるほかに応対のしようがない。
 とはいえ「友愛」は、フランス革命以来、自由・平等とともに近代政治の理念となっている。我らの首相がアンファン・テリブル(恐るべき子ども)であるのは、その理念を(かつてのフリー・メイソンと同じく)本気で信じているらしいという点にある。
 たしかに理念なき政治は、猿山のボスのものであって、言葉と歴史を持つ者としての人間社会の政治ではない。しかし、現実に裏づけられない理念は妄想の類に属し、妄想で動く国家は遅かれ早かれ地獄の沙汰をみる。
 そうとわかっていながら、今の日本人は首相のいわば「信じられてしまった偽善」を嘲ることすらできない。なぜか。あっさりいうと、我らの国是である日本国憲法には、そうした(「生まれながらの主権」をはじめとする)偽善の数々が、そうした種類の妄念だけが、書き記されているからである。
 我々の父親の代までは、戦前・戦中の歴史というものを体で知っていたので、それらの憲法条文が「きれいごと」にすぎぬとわきまえていた。だが偽善の言葉も六十余年に及んで繰り返されると、「伝統なき慣習」となる。それは、事の真偽を見分ける基準を伝統のなかに見出さんと努力する者からみれば、単なる悪習である。
 鳩山首相が国家破壊の最後の一撃に手をつけるのはその悪意からではない。「地獄への道は善意で敷き詰められている」とチャーチルはいった。鳩山氏のありあまる善意がいま、戦後民主主義によって地獄のそばまですでに連れてこられていた日本国家の背を、ぐいと一押ししていることは疑いようがない。
 小沢幹事長は、「チルドレン」を文字どおりに鞭撻しつつ、参院選に向けて邁進中である。そのモチヴェーションは(父親たる田中角栄ゆずりの)「民主主義は多数決だ」という命題からやってきている。
 なるほど、デモクラシー(民衆の政治)は「多数参加と多数決制」とからなる「数の制度」ではある。しかし、その制度が良きものであるためには、ましてやそれが「民主」(「民衆に主権あり」とする価値観)として肯定されるとなれば、「多数者の意見」が少数者のそれよりもおおむね勝れているという大前提が必要となる。そんな大前提をおくことがはたして妥当かどうか、その検討を欠いたままのいわゆる「数の論理」は民主主義の制度を形骸と化す。
 その形骸化の果てに「民衆が民主主義を民主主義的に自己否定する」という蛮行が行われる。それが「国民投票による独裁者の選出」であることは、ヒットラーにたいする「授権法」などによって、広く知られているはずである。
 国民投票を国民の気分というふうに広くとらえれば、スターリン独裁も毛沢東独裁も、数の論理を巧みに利用した民主主義的独裁だといってさしつかえない。民主主義の逆転現象、それは古代ギリシャ以来の歴史的傾向なのである。このことを押さえている者には、「民主主義は多数決だ」といってはばからぬ小沢幹事長の言動は、鳩山首相の偽善と相並ぶ水準の、独善のきわみといわざるをえない。
 十九世紀の後半以来、認識哲学の根本は(プラグラティズムの祖であるチャールズ・サンダース・パースの)「フォリビリティ」の想定にある。そのことが、この列島の知識人にあって、いささかも確認されていない。
 フォリビリティとは「可謬性」のことであって、要するに、人間の認識は「間違いを犯しうる」ということをさす。あっさりいって、多数者の意見には大きな「可謬性」がある、とみるのが歴史の知恵ということではないだろうか。(後略)

 

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