この平成時代は「大衆社会の波浪の未曾有の高まり」として形容できるであろう。つまり、スポイルド・チルドレン(甘やかされたお坊ちゃんたち)が、学界方面でいえば「物事の局所をしか知らない専門人たち」、政界方面でいえば「世論人気を当て込む民衆扇動家たち」、官界方面でいうと「当座の状況に適応せんと汲々とする技術者たち」、財界方面でいうと「自分の短期利益のことしか念頭におかない拝金教徒たち」、そしてメディア界はといえば「瞬間の流行に憂き身をやつす口舌の手合いたち」として、大量発生している。この社会のうねりの然らしむるところ、中学校の学級会議か、と思わざるをえないような風景が東京永田町の界隈に広がるのも当然といえよう。
鳩山首相のいう「公共の新しい概念」とは何か。その国会における所信表明を聞くと、「NGOのような市民活動を政府が支援すること」がその鳴物入りの新概念であるらしい。何と陳腐な所信であることよ、と呆れ果てるしかない。そもそも、「政府援助を受ける非政府組織」という自家撞着の存在に大きな期待を寄せるのは、小中学生級の所業である。「公共活動」に必要な「官民協調」において「政府のイニシアティヴ」を堂々と発揮してみせる、なぜなら公共活動には「長期的かつ広域的な配慮」が必要で、それは政府の仕事であるから、となぜ堂々と主張しないのか。こんな公共概念は政府の責任放棄にすぎない、といわれて致し方ないのである。
鳩山首相は、「友愛」の言葉に自己陶酔しつつ、「人間のための経済」という理想を語り、相も変わらず「規制撤廃」を唱える。この御仁は「小泉改革の失敗」の本質を何ひとつ理解していない。自由放任の経済が弱肉強食の過当競争をもたらし、所得格差や地域間格差が過剰に広がったのは、政府規制を悪と断じ、規制撤廃を絶対善とするアメリカ仕込みの自由主義イデオロギーである。「人間」とは、規制なきところでは、詐欺も残酷もやってのける厄介な動物であるとみる大人の判断、それを無視したのはエコノミストの流布させた市場教条主義である。そのことに少しでも留意すれば、「人間のため」だの「規制の撤廃」だのと御託を並べられなかったはずである。
「東アジア共同体」の構想にしても、アジア諸国から「慎重な議論が必要」との「ビナイン・ネグレクト」(丁重な無視)を受けている。そのことに少しも気づかず、「諸外国から愛される日本」をめざすというのだから、何をかいわんやである。しかも、首相の披瀝した具体策は、ただ一つ、「大学の単位の(国際間の)互換」だというのだから、これはもうお笑い種というしかない。
ましてや、自主防衛の姿勢を一片も持たぬままに、「オバマ核軍縮」を礼讚したり、「日米対等同盟」を掲げたりして、沖縄の普天間基地移設をめぐり、アメリカから(暗に)恫喝されている。というより、それが恫喝であることにすら首相は気づいていない。だから、恫喝にあっさり屈するという成り行きになったら、日本の立場がこれまで以上に屈辱的なものになるということに、鳩山氏はまったく無頓着なのである。
「二酸化炭素排出の25%削減」という首相の国連演説については、財界からの反発にやっと気づいたのであろう、「先進諸国が足並みを揃える」ことを前提にしての話だ、と弁明している。しかし、言い出しっぺの責任というものがある。日本経済は、首相の軽はずみな演説のせいで、世界に範を垂れてみせなければならなくなったのである。まず間違いなく、日本は欧米から「排出権」を購入して、「形式における排出削減」と「実質における排出維持」という方向に進むのであろう。欧米にすれば、まさにカモネギの日本首相とみえること請け合いである。
さらに、「無血の平成維新」とくれば、「学級委員長よ、戯言はもうやめてくれ」と懇願したくなる。「維新」とは温故知新のこと、つまり「ふさ」(維)のように過去との「繋がり」を保つ、といった形で新しい状況に対応することをさす。一体全体、ホームルーム会議のそれに似た「きれいごと政治」のどこに「日本の国柄との繋がり」があるというのか。しかし、そう歎いても詮ない話だ。我が愛する大衆諸君が歓呼の声で選んだのがこの学級政治であり、それが民主主義の繁栄というものなのである。「民主主義を疑う者たちの民主主義」、それだけが学級政治から脱け出る唯一の道だということを戦後日本人が理解するには、最短であと一世代(30年)は必要かと思われる。
首相は「マニフェスト(政策目録)はかならず実行する」とマニフェスト(宣言)する。しかし、「公債発行の増額」や「普天間基地県外移設の中止」に端的にみられるように、拙速で書き散らかしたり喋り散らかしたりしたマニフェストをそのまま実行できるわけがない。(後略)