記事(一部抜粋):2009年11月掲載

連 載

【流言流行への一撃】西部 邁

かならず暴露される「社民」政権の大矛盾

 大与党となった民主党にその自覚があるのかどうかはともかくとして、この政権の基本性格はソーシャル・デモクラシーつまり「社会民主主義」である。
 「子ども手当創出」、「高速道路料金廃止」、「年金記録整理」、「農家戸別所得補償」「郵政改革見直し」、「特殊法人廃止」「公共事業洗い直し」といった政治綱領の目玉商品をみれば、民主党政権が社会保障政策をふりかざしていることは一目にして瞭然である。小泉改革における個人(自由)民主主義から鳩山改革における社会(介入)民主主義への転換ということであるから、なるほど、左翼勢力の一部が「すわ、革命か」と喜んでいるのも頷けるところだ。
 しかし、少し仔細にみれば、この「社民」政権は、一つに何の変哲もない戦後史の一齣であるし、二つに抱え込んだいくつかの大矛盾がいつ爆発するかもしれぬ危険な政治体制でもある。加えて、大惨敗を喫した自民党が音立てて瓦解しているのであってみれば、我が国民は歓呼の声をもって日本国家が座礁するのを迎え入れた、といってさしつかえあるまい。
 戦後の自民党史にあって、平成改革は、とくに小泉改革は、異常突起物とでもよぶべき出来事であった。なぜといって、自民党の平均的な姿は、それが「世界に冠たる平等国家」を作り出したところによくみてとれるように、社会福祉を重視するものであったからだ。またそれを要求するのが、アメリカのソフト・ソーシャリストたるニューディーラーの残党たちによって作られた、戦後憲法体制というものでもあった。そのことに注目すれば、民主党政権の誕生は、平成の二十年余を閲したあとでやっと旧に復した、ということを意味するのである。
 もちろん、自民党多数派の本音は平成改革に疑念を寄せていた。しかし、一つに、当時の野党であった民主党が「改革」をかまびすしく叫び立てるし、二つに、世論もそれをやかましく後押しするので、やむなく、民主党のお株を奪う小泉改革に賛同した。そして小泉改革は日本社会に容易には修繕できない類の傷を負わせた。その責任をとるのは、いうまでもなく、与党であった自民党である。したがって、今次の総選挙においても、民主党のマニフェストと自民党のそれとのあいだにはほとんど違いがないにもかかわらず、民主党の圧勝となったのである。
 見逃しにできないのは、この二十余年のあいだに、日本の社民主義それ自体のなかに静かな革命(というよりも陥没)が生じていたということだ。つまり、経済の「日本的経営」に見本をみるような「慣習の体系」が、政治・社会・文化の全域において、蒸発していった。平成改革を率いたアメリカニズムは、実は、戦後日本における「歴史からの離陸」を促したのである。
 そのようにして日本人の精神が平坦に均されたという事実の上に、民主党の社民主義が植え込まれようとしている。
 自民党の社民主義は、何ほどかは日本の歴史の流れとの調和を図るものであった。それにたいして民主党の社民主義は、「友愛政治」という空語に端なくも表されているように、歴史との繋がりを断たれている。「社民主義の純粋化」、それに平成の日本政治は行き着いたということである。
 また、それをもたらす国内外の政治力学もはたらいていた。つまり、新世紀最初の十年間に、歴史保守とまったく無縁なアメリカ流の自由(個人)民主主義が大挫折を起こしていたのである。純粋の自民主義が駄目なら純粋の社民主義しか残らない、それが「歴史感覚なき歴史段階」における文明のバンドワゴン(時流に乗る車)のシーソー(ぎったんばっこん)なのだと思われる。
 西欧の社民主義が何とか落ち着きを保ちえているのは、その地域が歴史保守の政治風土を何とか維持しているからである。つまり、ソサイアティ(社会体)の安定とコミュニティ(共同体)の保全、その上に立っての社民主義というのが現代における西欧型文明の性格となっている。
 西欧より長く持続せる歴史を有しているにもかかわらず、日本国家は「歴史なき社民主義」に舞い上がり、そしてまもなく墜落の憂き目に遭うこと必定の成り行きとなった次第である。
 社会保障を大事にするのが社民主義であるからには、それは、資金と人材の両面において、ガヴァメントもしくはステートつまり統治機構(政府)のはたらきを重視せざるをえないはずだ。ところが、我が民主党は「脱官僚」を朗らかに謳いつづけている。「官僚主導を排して政治主導を探れ」というのが脱官僚の意味であるらしい。その標語はそれ自体としては民主主義の本道に沿ってはいる。しかし、日本の民主党が脱官僚をいう場合には、平成改革において一貫していた「小さな政府」論を引きずっていることを見逃しにはできない。その証拠に、たとえば菅直人氏の得意の口上であった「官を排して民に就け」とのセリフが民主党にあって反省された気配は少しもないのである。
 しかも、民主党のいう脱官僚政治とは「マニフェスト政治」のことでもある。それは、政策の「数値・期限・段取り」をまで指定したものとしてのマニフェスト通りに政治が行われることをさす。誰しもが予想しうるように、そんな杓子定規の政治は、官僚機構のみならず政治機構にも(紋切型を押し通すという意味での)官僚主義をはびこらせる。現にこの政権は、「子ども手当」の財政資金をひねり出すべく、「特別予算の執行停止」にやみくもに着手している。そこには、さまざまな政策のあいだのプライオリティにかんする政策論議などはみじんもみられない。
 「大きめの政府」を必要とするに決まっているのに「小さな政府」を追求するというのは、たとえ表看板に「税金の無駄づかいを排す」というきれい事が書かれていても、国家観における大誤謬である。ましてや、日本の政府が、先進各国のと比べて、むしろ小さめだということを考慮に入れれば、民主党の政府批判はいずれみずからの命取りとなるに違いない。
 政府批判を常套とするのは反体制派の習わしである。すでに体制の中枢を占拠したにもかかわらず体制批判の性癖から脱け出せないというのは、民主党にいわゆる野党根性が染みついているせいなのであろう。わかりやすくいうと、「体制破壊の体制」、それが民主党政権の濃い色合いだということになる。これから、民主党は(政策面において)種々雑多な矛盾にぶつかるであろう。そのたびに、責任を政府におっつけて、与党は責任から免れようとするのが政治主導の実質だということになる。
 その過程で、政府(役人たちの集合)は気力のみならず才覚も乏しくしていくに相違ない。そういう国家としての自傷行為をひっきりなしに繰り返すという「民主主義の腐敗段階」に、日本はとうとう入ってしまったということである。
 そこで到来する社会全体の無秩序をどうするのか。独裁制を好むような国柄でないからには、おそらく、司法当局が(法匪となるのも厭わずに)秩序の最後の拠り所となるのではないか。歴史が蒸発すれば道徳が消え失せ、そうなれば法律しかなくなるのが道理だ。司法当局による法律の恣意的解釈がこれから罷り通ることになると思われてならない。

 

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