(前略)
総選挙は、いつどこでも、政権つまり「国会における多数派勢力」を選択するためのものである。それなのに、今回の総選挙で、「政権選択」という文句がメディアに掲げつづけられたのはなぜか。次の解釈しかないはずだ。「立候補者の所属政党はどれかということのみに関心を払え、その人物の人格・経験・識見には考慮を及ぼすな」、それが政権選択という言葉が特別視されたことの意味だと解釈される。そうであればこそ、民主党から当選した代議士の半分は新人、という結末になりえたのである。
政権選択の別名は政党選択である。新たに誕生した政権党に(政策の面で)大きな期待が寄せられているというのなら、政党選択にも意味があろう。しかし、誰しもが認めているように、民主党の政策は、一つに「国内問題への引き籠もり」、二つに「弱者救済のきれいごと」にすぎない。それゆえ、どう勘定しても、政権選択の掛け声は「与党への不満を爆発させよ」ということにしかならない。
理屈としては、「与党へのやみくもの支持」もまた政党選択ではありうる。しかし、そういう現状維持を訴える者は「選択」などを口にしない。政権交代「それ自体」に進歩を見出そうとするという意味で、チェンジ・パラノイア(変革偏執病)だけが政権選択を総選挙の標語にできる。
しかし(福澤諭吉に倣っていうと)「改革者流、開化流、心酔者流」の流行は、今に始まったことではない。それは、近代「主義」の病気であり、その病理が病膏肓に達したのが、日本でいえばこの平成時代なのである。
知識人諸君は、政権が世間のムードに流されて簡単に交代させられていくことについて、「政党政治の終焉」などと評している。社会階層の流動、政党への圧力団体の解体、政党組織の崩壊といった現象をみれば、なるほど政党政治の終焉とみえはする。しかし、その実、政党選択の動きが、それだけが強化されているのである。その点では、政治「家」たちの政治ではなく、政党「組織」の政治が著しく強くなっているということもできる。ただし、政党が問題なのはあくまでイメージの次元においての話である。もっとわかりやすくいうと、現状への不平不満をどれだけ吸収するか、それがこれからの政党組織の大仕事だといってよい。
それはただちに「議会の空洞化」をもたらす。なぜといって、「議論」を行うのは政治家であって政党ではないからである。政治家の資質を問わない政治、そんな政治はたしかに総選挙における「マニフェスト」(政策にかんする具体的綱領)通りにしか進まない。その結果が国家を壊滅に至らせようとも、「政治家の協議なき政治」は、マニフェストの機械的適用のほかには、いかなる手立ても有しないのである。そして、おそらく何年おきかに、それまでの野党が不平不満を大量に集めて政権に就くという形での「4年間だけの安定」という政治の循環法則は、「マニフェストの機械的な適用とその機械の突如の停止」という事態をしかもたらさないであろう。
政党政治が実(議会討論)を失くして虚(不平不満ムード)に陥るにつれ、政治は混迷の度を深くする。その果てにやってくるのは、論理的には、まずアナーキー(無秩序)であり、次にディクテーターシップ(独裁制)である。しかし、無秩序にも独裁制にも、人々は、とくに秩序の安定と(その枠内での)言動の自由とに慣れ親しんできた戦後日本人が、耐えられるわけがない。何がその一定の安定と自由とを保証してくれるのか。いうまでもなく政府官僚(役人)である。
役人には世上でいわれているような、さらには役人自身が自己認定していうような、テクノクラート(技術者)ではない。政治家から政策目的が与えられたら、それに合うような政策手段をみつける、それは役人のやっていることの半面にすぎない。他の半面において、役人たちはみずから政策目的の候補を探し出して、それを政治家に提示しているのだ。それのみならず、自分らの価値判断にもとづいて、妥当と思われる政策手段の種類と程度とを(大まかにせよ)限定しているのである。
その意味で、役人はセミポリティッシャン(準政治屋)だといってよい。しかも「選挙の洗礼」を受けないですむポリティッシャンなのである。この準政治屋としての役人集団がいてくれるおかげで、大衆政治はかろうじて安定を保ちえてきた。大衆政治が大衆人気に煽られる大衆選挙によって大きく揺れ動くにもかかわらず、国家がそう簡単に激震に見舞われないのは、「選挙からの自由」を享受しえている政府官僚機構が、政策目的の形成と政策手段の探索において、持続性、包括性そして整合性を守ってきたからだとみるべきである。こうした「官僚(の非公式の)主導」があったればこそ、大衆国家は1930年代のような暴走をせずにすんできたのである。
ところが、政権選択とやらに何らかの内容があるとすれば、「官僚主導から政治主導への転換」という御託宣だけときている。そして、その政権交代によってもたらされるのは、「政党イメージの肥大」と「政治家の能力低下」なのである。それでも政治を安定させようとすると、官僚主導をひそかに強化するのほかはない。つまり、「官僚主導を排する」という現下の大衆運動は、「官僚主導を招く」、という逆説に逢着するわけだ。
(後略)